2020年05月24日「心を騒がせるな(2020ペンテコステ・前)」

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心を騒がせるな(2020ペンテコステ・前)

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章1節~12節

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心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。ヨハネによる福音書 14章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約「心を騒がせるな(2020ペンテコステ・前)」ヨハネ14:1~12

今年は、暦の上では5月31日がペンテコステ礼拝となっていますが、一週前の本日の礼拝から、2回に分けてヨハネ福音書からペンテコステについて、教えられたいと思います。それは、今ウイルス禍にさらされてインターネット礼拝をおささげしている中で、聖霊のお働きと教会について深く学ぶことは非常に大切である、と思わされたからです。

 ここで、主イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(1節)」と言われましたが、すぐ前で、ペトロの否認を予告しております(13:38)。

十字架の直前に行われた主の晩餐の席上で、弟子のリーダー格のペトロが、こともあろうに主イエスを三度知らないと言う、このように主イエスは予告したのです。弟子たちの間に緊張が走ったのは当然でありましょう。その状況で主イエスは、心を騒がせるな、と言われたわけです。

では、どうして心を騒がせる必要がないのか、これを本日の箇所は示していくのです。

早速その理由を主イエスは言われます。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか(2節)。」このわたしの父の家というのは、具体的には天国のことです。

天の国には、住む所がたくさんある、というわけです。

ここで大切なのは、その場所を主イエスが用意してくださる、ということです。最初から天の住まいには、空き家がたくさんあって、入居者を募集している、というのではありません。このように読み間違えてはならないのです。これから、主イエスが、十字架で死んでくださり、ご自身の民のために場所を用意してくださる。この十字架の贖いが完全であるから、主イエスを信じるキリスト者であれば、必ずその住まいに入れていただける。だから、天の住まいには、住む所がたくさんあるのです。

この約束は、十字架によって保証されているのです。

 しかし、今弟子たちは、主イエスがどこに行かれるのか不安で仕方ありません。

12弟子の一人トマスは、「どうして、その道を知ることができるでしょうか(5節)」、と尋ねます。

 ここでなされる主イエスの回答が極めて重要です。イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(6節)」この主イエスの回答にキリスト教の本質が示されている、と言ってよろしいでしょう。キリスト教とは、思想ではありません。聖書の思想が、罪人に救いを与えるのではありません。それは、キリストに導く手段にすぎません。キリストご自身が救いを与える、それがキリスト教です。主イエスそのものが道なのです。

教えを道という宗教は多いですが、キリスト教の道は、教えではなく、キリストご自身なのです。

そして、真理もキリストであり、命もキリストにある、これがキリスト教なのです。

キリスト教とは、キリストそのものであり、聖霊の働きによって天上のキリストに結び付けられている現実です。これ以外は、キリスト教ではありません。キリストが道であり、真理であり、命である、これ以外のキリスト教は、真のキリスト教とは言えないのです。

 そして、キリストが道であり、真理であり、命である、この真のキリスト教でなければ、決して天の父のもとに行くことができない、キリストを通らないで、天の父の許に行くことは出来ないのです。

 ペンテコステの出来事から、聖霊のお働きによって天の国と地上の教会はつながり、教会、そして私たち一人一人は、天上の主イエスに結び付けられたのです。そこには聖霊の働きが躍動しているのです。ですから、主イエスは「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(12節)」と約束されます。

 これが世の終わりまで教会に与えられた約束です。

 主イエスは、「悔い改めよ、神の国が近づいた」とガリラヤで福音宣教を始められ、エルサレムで、十字架で殺されるまで、ユダヤ一体とパレスチナに福音を宣教し続けました。

 しかし、私たちが今続けて学んでいます使徒言行録では、その後アジア、そしてヨーロッパ大陸にまで福音が響きました。そして、今、聖書の世界から見ますと地の果てにあります私たちの国でも福音が語られ、教会が建てられました。

 主イエスが、「父のもとへ行く」、と天に昇られ、その天と地を繋ぐ聖霊の働きによって、今もこの福音宣教は行われています。今も聖霊によって私たちが用いられ続けられているのです。

 私たちは、心を騒がせる者であります。特に、今、ウイルス禍にさらされて心騒がせない者が一人でもありましょうか。しかし、それでも尚主イエスは心を騒がせるな、と言われるのです。

それは私たちの福音宣教の主は聖霊なる神だからです。その主導権も責任もすべて聖霊なる神が取ってくださる。私たちはそれに用いられているだけだからです。しかも、聖霊の御業によって、天の父と主イエスに結びつけられ、この私たちの教会に天上の父と御子が住んでくださっているからです。その時何を畏れましょう。その時、心騒がせる必要はないのです。

しかし、それでも尚一つだけ忘れてはならないことがあります。

 それは最初に申し上げましたように、「住む所がたくさんある」、と主イエスが約束されたその場所は、主イエスの十字架によって私たちに与えられた、ということです。

主イエスは十字架で殺される前の夜、心を騒がせるなと言われているのですが、その主イエスご自身は、心騒がせておられたのです。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ(12:27)」、とこのように、十字架を目の前に主イエスは、平穏無事ではなかったのです。むしろ、『父よ、わたしをこの時から救ってください』、と心騒がしておられたのです。

 しかし、だからこそ、主イエスは私たちに今、心を騒がせるなと言われているのではありませんか。本当ならば、私たちが心騒がせ、焦り、動揺し、恐怖に怯えなければならなかった。本当ならば、この私こそが十字架につけられなければならない罪人だったからです。

しかし、この罪人の頭のために主イエスが十字架についてくださった。主イエスが十字架についてくださったから、私たちは十字架から逃れ解放されたのです。主イエスが心を騒がせてくださったから、私たちは心を騒がせるなと言われているのです。ですから、主イエスが今、心を騒がせるなと言われている時、十字架がそこに立っているのです。そして、その十字架の救いが、天と地を繋いで地上で実現されたのがペンテコステであり、聖霊がペンテコステで降った時、十字架の救いが、私たちに約束されたのです。ペンテコステとは、十字架の救いがこの地上にもたらされた恵みの日であります。この日、十字架がこの地に建てられたのです。そして「心を騒がせるな」それは、主イエスが私たちの代わりに苦しんでくださった十字架の言葉です。