2021年04月04日「涙からの逆転~ラザロ出て来なさい~」

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涙からの逆転~ラザロ出て来なさい~

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 11章28節~44節

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聖句のアイコン聖書の言葉

28節「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。」
29節「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」
30節「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。」
31節「家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。」
32節「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。」
33節「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、」
34節「言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。」
35節「イエスは涙を流された。」
36節「ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。」
37節「しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。」
38節「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。」
39節「イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。」
40節「イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。」
41節「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」
42節「わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
43節「こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。」
44節「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」
ヨハネによる福音書 11章28節~44節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約「涙からの逆転~ラザロ出て来なさい~」 ヨハネ福音書11:28~44

本日のイースター礼拝で与えられました御言葉は、昨年のイースター礼拝の御言葉の続きで、ラザロの復活の記録の結論部分と言えます。

イエス様は、ラザロの姉妹マリアと周りのユダヤ人たちが泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮して、(33節)」と記されています。この主イエス様の憤りは、死に対する怒りです。人々が、死を前に諦めるしかなかった時、主イエスは諦めていないのです。ですから、「心に憤りを覚え、興奮して」、これは、死に降参するのと正反対の姿、死と戦う姿なのです。

しかし、その直後「イエスは涙を流された。(35節)」、と記録されています。

死との戦いには一歩も退かない主イエスが涙を流されたのです。どうしてでしょうか。それは、同時に主イエスは、人の弱さをよくご存じで、憐れんでくださる方だからです。私たちが家族や友人と死別する悲しみを、主イエスが御存じなのです。「復活するのだから、いいじゃないか」、ではないのです。主イエスは、私たちの弱さを御存じなのです。永遠の命を知りつつも、死別の悲しさをこらえられない私たちの痛みを主が御存じなのです。この「涙を流された」、の涙を流す、という言葉は、涙を地に落とすことを意味します。頬をつたう涙、というよりも涙をぼろぼろと流された、そう言う表現です。イエス様も彼らと共に、彼らと同じように泣いたのです。

「イエスは涙を流された。」これはギリシア語の本文では冠詞を含めて3つの単語がおかれているだけの短い節で、私が知る限り、ギリシア語の新約聖書で最も短い節です。しかし、この聖書で最も短い節に、これ以上ない慰めが示されているのではないでしょうか。これから先、私たちが大切な人の死を経験する時、それでも尚「イエスは涙を流された。」と聖書は言うのです。主イエスは私たちと共に大粒の涙を流して下さる方なのです。

さて舞台がラザロの墓の前に変わり、主イエスがラザロの墓穴をふさぐ「その石を取りのけなさい」と言われますと「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます(39節)」とラザロの姉妹マルタが反対しました。マルタはほんの少し前に、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。~このことを信じるか。(25、26節)」と主イエスに問われ、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。(27節)」とこのようにこれ以上ない立派な回答をしたはずです。それにも関わらずなんと玉虫色の信仰でありましょう。しかし、これが私たち人間の不信仰な姿です。「わたしは信じております」、と言った直後疑うのです。

「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(40節)」とイエス様が言われたのは、この場所に誰も信じる者がいなかったからです。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」これはマルタだけの不信仰ではなく、そこにいた者全員の理解で、喪主であるマルタが代表してこのように言ったのです。そこにあったのは不信仰であり、絶望でした。

19世紀のデンマークにキルケゴールという神学者がおりました。彼は、このラザロの復活の御言葉を下敷きにして「死に至る病」という有名な著作を残しました。

その中で、「死に至る病、それは絶望である」、とキルケゴールは言います。この「死に至る病」が厄介であるのは、「自分が絶望であることを知らないでいる」ことです。病の自覚症状がないのです。

まるで、この一年間世の中を苦しめている感染症のようです。いいえ、それ以上に自覚症状がないのです。むしろ、その病が普通である、死に至る病が常識になっているからです。復活という最高の喜びを信じられず、死を前にただ降参する、この絶望こそが死に至る病なのです。そして実に多くの方が「死に至る病」に気が付かずに死に向かって歩み続けています。今やそれは世界中に蔓延しています。ここでも、マルタとマリアの姉妹、そしてそこにいた全ての者が、知らないうちに今、「死に至る病」に侵され始めていたのです。どうしてでしょうか。それは、人の死を神様との関係ではなくて、この世との関係で見ていたからです。その場合、涙は、何時までも涙のままで、それが渇いても残るのは不信仰です。ここでは、死を前に絶望しかなかった人々の姿が描かれているのです。

しかし、それでも今ここで死者は復活したのです。

ラザロの復活は、信心深い身内へのご褒美ではなく、ラザロ自身の信仰にさえ聖書は興味を示しません。キリストがそのように願ったからなのです(42節)。大切なのは、主イエスがともにおられることそれだけです。イエスこそが復活そのものであり、主イエスと共に復活と永遠の命があるのです。

私たちは、死の瞬間に疑い迷い恐れるかもしれない。キリスト者であっても最後までうつ病に苦しみながら天に召される方もおられます。認知症を与えられるキリスト者もおられます。健やかであっても、時として私たちの信仰は、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」この程度なのかもしれません。こんなのただの不信仰です。しかし、私たちがキリスト者で、主がともにいてくださる以上、その私たちが必ず復活する、永遠の命に与る、これがこのラザロの復活で示されている偉大な真理であり約束であります。もはや私自身の信仰の強弱のようなものは、復活には何の意味も持ちません。復活はただ私たちの主イエスだけにかかっています。

さらにここで大切なのは、復活させられたラザロが、最後まで受け身であった、ということです。

この記録はラザロの復活であるにも関わらず、ラザロは何もしていませんし、彼には一言のセリフさえ与えられていません。ただ死んで葬られて、朽ちていくだけの登場人物でした。しかも、ここでは、「顔は覆いで包まれていた(44節)」、とその覆いさえ、ほどいてもらう始末でした。つまり復活というのは、私たちにとって徹底的に受け身である、ということです。私たちは死んで朽ちていくだけであるにも関わらず、それでも尚復活は約束されている、ということです。

同様にここで大切なのは、主イエス様が、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた(43節)」ことです。主イエスが、他でもない生前に与えられていた彼のその名前を呼んで復活させてくださった、ということです。そのすぐ後「すると、死んでいた人が」と呼ばれていますように、ラザロは死んでしまった以上、死んでいた人です。彼は今、死者たちの一人に過ぎないのです。しかし、イエスは彼の名を呼んでくださる。「死んでも生きる」、というのは、言い換えますと「主イエスが私たちのその名を覚えていてくださる」、ということです。もうすでに眠りについていても、キリスト者であれば、主イエスがその名を覚えていてくださる、だから、今彼らがどのような状態であっても、今生きているのです。

しかも、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた」、この「大声で叫ばれた」、という言葉は、地に轟くような叫び声です。これが死者の復活なのです。私たちは復活の日、世界中に響くように、私たちの名を叫ばれるキリストの声を聞いて起き上がるのです(黙示録21:3、4参照)。

 私たちは、やがて地上を去ります。しかし、私たちが最後に目を閉じて、次に聞く声は主イエスが私のこの名を呼ばれる声なのです。死の床にあって、これ以上の慰めがありましょうか。