肉の人
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- 新井主一 牧師
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コリントの信徒への手紙一 3章1節~4節
聖書の言葉
1節 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
2節 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3節 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4節 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
コリントの信徒への手紙一 3章1節~4節
メッセージ
説教の要約
「肉の人」Ⅰコリント3:1〜4
先週までの箇所で、パウロは、教会トラブルによって、その群れの一致が壊れかけていたコリントの教会に対して、その信仰的一致のためにキリスト教信仰の中心であり、最も大切なイエスキリストの十字架を改めて確認いたしました(1:18〜2:16)。その上で、いよいよ、この3章から、そのコリントの群れの教会トラブルについて具体的に取り上げていくわけです。
ここで、まずパウロは、コリント宣教を振り返り、「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。(1節)」、と切り出します。「キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」、むしろ、これは、当然のことであるわけです。福音を聞いたことがない以上、キリスト教信仰の何たるかを知らないのは当然であるからです(ローマ書10:17参照)。パウロは、それを教育的に、段階的にコリントの人たちに教え始めた、それが、「キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」、この言葉の示す意味です。
しかし、次第に問題が明らかになっていきます。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。(2節)」。幼児である以上、乳を飲んで成長するのは、当然のことです。最初から、「固い食物」なんか与えられたら、噛み砕けないし、喉に詰まらせる危険さえあるわけです。しかし、問題なのは、「いや、今でもできません」、というコリントの人たちの現状なのです。つまり、彼らは、「乳を」飲んでも成長しなかったのです。「乳飲み子」である時に、「まだ固い物を口にすることができない」、それは問題ではないのです。しかし、体が大きくなっても、「固い物」ではなくて、「乳を」飲んでいる有様ではないか、とパウロは指摘しているのです。
ここで、覚えておきたいのは、キリスト教信仰は、必ず成長するものである、という前提的理解です。キリスト教信仰は、「乳飲み子」が少年・少女に、そして青年になるように成長するものである、これが聖書的な理解なのです(ヘブライ書5:12〜14、コロサイ書3:9〜11も参照)。
続いて、コリントの信徒たちが成長していないその根拠が示されます。「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。(3節)」。パウロが、コリントの信徒たちに、「今でも、まだ固い物を口にすることができません」、と指摘する理由は、「お互いの間にねたみや争いが絶えない」、とありますように、教会内部で諍いが続いていることでした。そして、それが、彼らが依然として「肉の人」である何よりの証拠である、とパウロは言うわけです。
ここで、一つ確認したいのは、「ねたみや争い」、とあります、この「ねたみ」という言葉の意味です。
「ねたみ」、というと、嫉妬とかやきもち、英語で言う「ジェラシー(jealousy)」をイメージする、ややネガティブなニュアンスを感じますが、ここで「ねたみ」と訳されている字は、ギリシア語で本来「熱心」や「情熱」と訳される言葉なのです。もともとのギリシア語のニュアンスから言えば、英語でもjealousyと訳すべきではなく、passionの方が正確でしょう(あるいはzealくらいか)。特に、聖書的には、むしろ積極的な宗教的熱心を意味する言葉なのです。
他ならぬこのパウロ自身が、若かりし日の自分の姿を表現するために、「熱心さの点では教会の迫害者(フィリピ3:6)」、とこの言葉を使っています。若い日にパウロは、ファリサイ派に属していて、信仰的正義感に基づいた熱心さによって、キリストの教会を迫害していたのです。それが、間違いであるなんて知る由もなかったわけです。
ですから、ここで、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上」、とあります、この「ねたみや争い」というのは、宗教的な熱心に動機づけられていたわけで、決して些細な事柄や、下品な行いから発展したもめ事やゴタゴタではなかったのです。宗教的な熱心でも教会は分裂する、私たちは、この事実をこの御言葉から読み解かなければなりません。
各々、それが主の御心である、と確信して教会に仕えている、イエス様のお役に立ちたいと願っている、しかし、そのプロセスが違ったりすると、衝突してしまうのです。しかも、熱心であればあるほど、激しくぶつかり合うのです。しかし、「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」、どんなに熱心でありましても、教会の中で諍いがあることは、私たちが肉の人であることを立証するわけです。
その上で、そのコリントの教会の「ねたみや争い」の具体例が指摘されます。「ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。(4節)」、ここでは、「わたしはパウロにつく」、というパウロ派と「わたしはアポロに」、と主張するアポロ派に分裂しているわけです。これも、宗教的に熱心であるが故に引き起こされる争いなのです。しかし、改めて、この党派争いの図式を整理して見てみますと、決定的な歪みがあります。ここで、「ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば」、とありますが、そのパウロ派とアポロ派のそれぞれの党首に掲げられた「パウロ」も「アポロ」も、それを承認しているわけではありません。論争を正当化するために、勝手にその名前が使われているだけの話なのです。人の名前や権威を使って自らの立場を正当化する、これが、「肉の人」であり、「ただの人」に過ぎないことを裏付けているわけです。
ここで、最後に、「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」、とパウロが指摘するところに注目したいのです。つまり、「あなたがたは、ただの人」ではないのだ、とパウロは言いたいのです。パウロは、「相変わらず肉の人だからです」、といっておきながら、コリントの人たちをこれっぽっちも「肉の人」だなんて思っていないのです。彼らは、十字架の主イエスの血によって罪許され、永遠の命が約束されているキリスト者である、神の子の身分まで与えられているではないか。一人のキリスト者のために主イエスは十字架で死んでくださったのです。これは、このコリント書の中でパウロがはっきりと言っています。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。(コリント8:11)」、これがキリスト者一人の値打ちです。私たちは、「ただの人」ではない、むしろこのたった一人の惨めな私に神の子の十字架がかかっているのです。それなのに、どうして、「パウロ」とか「アポロ」とか人間の名前や権威を掲げて頑張っていらっしゃるのか、パウロはそれを言いたいのです。
私たちにも突き刺さりませんか、「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」、このパウロの叫びが。私たちが、この世の権威や富に心奪われるとき、この世の圧力や権力に恐れるとき、病や死の恐怖におびえるとき、「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」、と。
その時こそ、私たちは、「ただの人」ではないのだ、と十字架の主を仰ごうではありませんか。
この世の権威や富に心奪われるとき、そのようなものとは、比較できない財宝が約束されていることを。この世の圧力や権力に恐れるとき、我らの主はすでにこの世に勝利していることを。病や死の恐怖におびえるとき、私たちには全てが益となり、いますでに、永遠の命に生かされていることを。
「あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」、いいえ、私たちは、「ただの人」ではない、イエスキリストによって神の子とされているキリスト者なのだ。これが私たちキリスト者のアイデンティティーであります。