2026年06月28日「〜十字架の言葉の結論〜聖霊のお働き(後)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

10節 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
11節 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
12節 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
13節 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
14節 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
15節 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
16節 「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章10節~16節

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説教の要約

「〜十字架の言葉の結論〜聖霊のお働き(後)」Ⅰコリント2:10〜16

本日の御言葉が、「十字架の言葉」を謳う御言葉の最終回で、いよいよ、「十字架の言葉」のテーゼ(1:18)に結論が出されます。

ここでは、「人の知恵に教えられた言葉」と、「“霊”に教えられた言葉」とが「あれか、これか」の論理で対照的に並べられています(13節)。その上で、前者の「人の知恵に教えられた言葉」が、さっさと退けられることで、「“霊”に教えられた言葉」の決定的な重要性が強調されています。

さらにパウロは、「霊的なものによって霊的なことを説明するのです(13節後半)」、と追い討ちをかけます。つまり、100%霊的である、ということです。 「“霊”に教えられた言葉」に、「人の知恵に教えられた言葉」をアレンジしてこの世との調停を図る、そのような姑息な手段を聖書は認めないのです。

 「霊的」、と言いますと肉体的とか物質的の反対側にあって目に見えないぼんやりしたもの、あるいは、神秘的に似たようなイメージを持たれる方が少なくないと思います。

以前、一度申し上げたことがありますが、私は、この「霊的」、という言葉を「聖書的」と言い換えてよろしいと思っています。「霊的」というのは、聖霊的であり、聖霊は私たちに対しては、常に聖書と共に働かれるからです。

 ペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです(Ⅰペトロ2:2)」、とこのように、「混じりけのない霊の乳」という比喩的な表現を用います。これこそが、パウロがいいます、「“霊”に教えられた言葉」ではないでしょうか。「人の知恵に教えられた言葉」が混入していない混じり気のない「“霊”に教えられた言葉」を飲んで成長する、これが私たち信仰者の信仰の歩みであります。

その上で、パウロは、「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません(15節)」、と続けます。ここで、「霊の人は一切を判断しますが」、とあります。

 もちろん、これは、この世のあらゆる文化や一般的な学問全体を「判断」すると言う意味ではありません。キリスト者になれば、聖霊によって自動的に語学や科学の知恵が与えられる、そんな夢みたいなことを言っているわけではないのです。この「一切」というのは、十字架の言葉であり、その内容は、罪の赦し、永遠の命、御国の世継ぎ、といったあらゆる神の救いの恵です。つまり、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です(1:18)」。この十字架の言葉の命題が、「真」であるがゆえに、「霊の人は一切を判断します」、という結論が与えられるわけです。

 さらにパウロは、「その人自身はだれからも判断されたりしません」、と続けます。これは、少し難解な表現になっているかもしれません。この「その人自身」というのはいうまでもなく、「霊の人」のことです。では、その「霊の人」、すなわち私たちキリスト者は、「だれからも判断されたりしません」、これはどういう意味でしょうか。

実は、この「判断されたりしません」、とあります、「判断する」、という字は、「裁く」という意味を持つのです。ですから、私たちキリスト者は、誰からも裁かれない、ここはそういうニュアンスで、実は、この部分もこの後の本論部分の伏線になっているのです。少し先回りしまして、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません〜わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません(4:3〜5)」、この御言葉です。私たちキリスト者は、誰からも裁かれない、いいえ、裁きあってはならない、わたしたちを裁くのは主だけであるからです。

 ですから、「その人自身はだれからも判断されたりしません」、とパウロがいいますとき、ここでもパウロは、「ねたみや争いが絶えない」、そして互いに裁きあっているコリントの信徒の群れに対して、これから本論部分で強烈に指摘する内容の伏線を張っているわけです。

 さて、この十字架の言葉の論証の最後にパウロは言います。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。(16節)」

 ここで、パウロは、「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」とイザヤ書の言葉を引用します。→「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え/知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか(イザヤ40:13、14)」。

このイザヤの預言を簡潔にまとめて、パウロは、「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか」、と適用するわけです。

ここで、注目したいのは、イザヤ書の方では、「主の霊を測りうる者があろうか」、と言われているところなのです。「主の霊」、すなわち、これは聖霊なる神様です。でもどうしてパウロは、イザヤ書の方では「主の霊」と書かれているのに、これを「主の思い」と言葉を変えて引用しているのでしょうか。それは、旧約聖書の翻訳の問題なのです。この「主の霊」の、「霊」という字はヘブライ語聖書では、でルーアハ(רוּחַ)と記されています。しかし、パウロの時代は、ヘブライ語聖書ではなくて、通常70人訳と言われるギリシア語の旧約聖書が広く用いられていたのです。そして、その70人訳聖書では、ヘブライ語の霊を意味するルーアハ(רוּחַ)という字を、心とか思いという意味を含むギリシア語のヌース(νοῦς)という言葉に訳し変えていたのです。それでパウロは、誦じていたそのギリシア語の旧約聖書の言葉のまま、「だれが主の思いを知り」、とこの書簡に認めたわけです。

 ですから、「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか」とここで「主の思い」、そして、「キリストの思い」、と訳されている「思い」という言葉は、「霊」と同義的ということになります。そしてこれに続いて、最後に、「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」、とパウロが言いますとき、「わたしたちはキリストの御霊を抱いています」、とこのように言い換えることもできるわけです。

 ここまで、パウロは、十字架の言葉の論証を続けてきました。そして、この後3章からは、さらに激しくコリントの教会に対して厳しい指摘と警告を始めようとしています。その狭間に立ってパウロは、「しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています」、と圧倒的な平安を謳って憚らないのです。

 今、パウロの心境は、嵐の前の静けさなんて呑気なものではなかったはずです。彼はまるで、嵐の中に彷徨う小船の中にいる。しかし、そこには御霊なる神によってイエスキリストが共におられる、そうである以上、そこには主イエスの「安かれ」が響いているのです。

その主イエスの「安かれ」に立ってパウロは、「わたしたちはキリストの思いを抱いています」、とこの信仰に立つのであります。この信仰者パウロの姿を私たちは思い巡らしたいのです。。

 以前、復活の主イエスが弟子たちに「安かれ」と言われた御言葉の説教の中で、「私たちの魂の中で、「安かれ」、このイエスキリストの言葉が響いている以上、私たちの希望が潰えることはございません。この言葉と共にキリストがおられるからです」、と申し上げました。私たちは、改めてこの「安かれ」が私たちの現実になっているか確認したいのです。信仰は単なる思想ではなくて現実だからです。大切なのは、理想と現実、思想と現実、というせめぎ合いから抜け出して現実に立つこと、現実に生きることです。

 悲しみや苦しみ、そして恐れを避けることはできません。しかし、それは、問題ではありません。

「わたしたちはキリストの思いを抱いて」いるからです。

これが「十字架の言葉の結論」でありましょう。