2026年06月20日「〜十字架の言葉の結論〜聖霊のお働き(前)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

10節 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
11節 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
12節 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
13節 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
14節 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
15節 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
16節 「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章10節~16節

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説教の要約

「〜十字架の言葉の結論〜聖霊のお働き(前)」Ⅰコリント2:10〜16

本日の御言葉は、十字架の言葉の段落(1:18〜2:16)の最終回で、いよいよ、ここでこの「十字架の言葉」のテーゼ(1:18)に、最終的な結論が出されていきます。そういう面で、非常に大切な箇所でありますので、今週と来週の2回に分けて、この「十字架の言葉」の結論部分を丁寧に見ていきたいと願っています。

 この結論部分の前半(10〜13節)で特に注目したいのは、 「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。(12節)」、このパウロの言葉です。ここでは、この「世の霊」の無力さと、「神からの霊」の必要性が確認されます。実は、この、「世の霊」という表現は、新約聖書でここにしか見られません。これは、6節にあります「この世の知恵」の言い換えであり、それに続く、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」、と同義的でありましょう。「この世の知恵」ではなくて、神からの霊を受けたので、「わたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになった」、とこのようにパウロはいうわけです。

つまり、十字架の主イエスを、聖霊のお働きによって知ることができたということです。

 その上で、大切なのは、この節で、「わたしたちは」、という言葉が繰り返されているところです。

 言うまでもなく、この「わたしたちは」、というのは、パウロとコリントの信徒たち全体を指しています。もともとこの新約聖書が記されていますギリシア語というのは、動詞に人称が含まれていて、とても便利な言語なのです。ですから、あえて、「わたしたちは」、という言葉を入れなくても、動詞変化をみればその人称が簡単にわかります。パウロは、それを百も承知で、あえて、この「わたしたちは」、という字を繰り返すことで、もともとのギリシア語の本文では、大変仰々しい言い回しに仕上がっています。おそらく、ここにはパウロのアイロニーが含まれているように思われます。つまり、ここまで、何度か確認してきましたように、コリントの信徒たちの中には、この世の知恵を誇り、自らの立場や、富を拠り所にしていた、そういう者たちが少なからずいたのです。つまり、パウロが、「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました」、と強調するのは、「神からの霊」ではなくて、「世の霊」と「この世の知恵」によって高ぶっていた人がいたことの裏返しなのです。

 これは、プロローグ部分で既に簡単に触れましたし、この後3章以下でも明らかにされますが、「世の霊」による高慢さ、これがこのコリントの教会のトラブルの大きな問題であったわけです。

 この節で言われています、この「神から恵みとして与えられたもの」、というのはイエスキリストの十字架の救いです。コリントの信徒たちは、もちろん、イエスキリストの十字架を否定していた訳ではありませんでした。しかし、いつの間にか、イエスキリストの十字架をこの世的に曲解し、十字架の救いと、この世の知恵とを混同させていたのです。

イエスキリストの十字架は、歴史の中で実際起こった客観的な事実であって、そうである以上、イエスキリストの十字架の救いについて否定する信仰者はいないのです。いたとしても、異端者として教会から追い出されるだけの話なのです。それに対して聖霊のお働きは主観的なのです。

 ですから、問題が起こるのは、聖霊のお働きについての曲解なのです。キリスト教会の信仰的な問題のほとんどは、この聖霊の問題、教理でいえば聖霊論なのです。

そこに必ず人間の功績のようなものが頭をもたげてくるからなのです。

例えば、救われるのが行いによるのか恩恵によるのか、という問題も十字架の救いを否定しているのではなくて、その救いがいかに罪人に適用されるかの問題で、聖霊なる神様のお働きについての理解の違いで論争が起こるのです。

 有名なのは、マルティンルターによって口火が切られた宗教改革の出来事です。中世のカトリック教会も十字架の救いを認めた上で、それがどのように罪人に適用されるか、という問題で、お金を出して贖宥状を買えば救われる、という触れ込みをしたわけです。しかし、ルターは、それを容認できなかった。ですから、宗教改革の戦いというのは、罪人に救いを適用される聖霊なる神様のお働きについての理解の違いから始まったわけです。

 前述のように、このコリントの群れは、自らの賜物を自慢することで、自らの救いをひけらかすような傾向が強かったようです。これも、十字架を否定している訳ではなくて、その十字架の救いがどのように自分たちに有効とされるか、という問題なのです。ですから、パウロが、ここまで「人の知恵」を否定し、十字架の言葉を強調してきたのも、この十字架の救いが、人間の知恵や力や地位のようなものとは全く無関係に、ただ聖霊なる神様の力によって実現する真理を一歩も譲ることができなかったからなのです。十字架の言葉は、聖霊の力によって実現する、それ以外の方法はないのです。

 その上でさらにパウロは続けます。「そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです(13節)」。ここでも、「人の知恵に教えられた言葉」が否定され、「“霊”に教えられた言葉」が、そのまま福音宣教の言葉であることが明確にされています。

大切なのは、12節の最後で、「それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」、と言われてすぐに、「そして、わたしたちがこれについて語るのも」、と続くところなのです。「神から恵みとして与えられたもの」、これはイエスキリストの十字架の救いであることを繰り返し確認してきました。つまり、十字架の救いは、「知るようになった」という状態でおしまいではないということなのです。それは、「わたしたちがこれについて語るのも」、と続くように、語らずにはいられない言葉となって私たち口を通して、この世へと発信されるのです。十字架の言葉というのは、知ってすぐに伝えざるを得ない喜ばしい知らせである。そして、そのようにわたしたちを導くのも聖霊なる神なのです。十字架の言葉を私たちに適用し理解させる聖霊は、必ずわたしたちを十字架の言葉の宣教へと駆り立てるのです。パウロは、この後コリントの信徒たちに、もし福音を知っているだけで、それを宣教しないのなら私は不幸であるとさえ言っています。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです(9:16)」。この通りです。福音というのは、告げ知らさずにはいられない喜びであり、黙っていたらそれこそ不幸である、という状況まで作り出してしまう、絶大な恵みなのです。そして、福音を聞くこと、理解すること、伝えること、この全体を導かれるのが聖霊なる神様のお働きなのです。私たちがふらふらしていたり、弱かったりするのは問題ではないのです。そのわたしたちを導いてくださるのは、絶大な神の力であるからです(讃美歌333参照)。