2026年05月17日「わたしたちの誇り」
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わたしたちの誇り
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コリントの信徒への手紙一 1章26節~31節
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聖書の言葉
26節 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
27節 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
28節 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
29節 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
30節 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
31節 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
コリントの信徒への手紙一 1章26節~31節
メッセージ
説教の要約
「わたしたちの誇り」Ⅰコリント書1:26〜31
先週までで、このコリント書の中心部分と言える御言葉から2回にわたって教えられました。
そこで、結論づけられたのは、「十字架の言葉」の宣教という愚かな手段に、教会の命がかかっている、という事実でした。本日の御言葉では、この「十字架の言葉」が、コリントの信徒たちの現実に適用されることによって、「十字架の言葉」は、単なる思想や教えではなくて、キリストの教会で常に響き、信仰者の土台にあることが生き生きと示されていきます。
パウロはまず、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。(26節)」、と切り出します。ここでは、「知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者」、と三通りのインテリ層があげられます。パウロは、このような上流階級と言える者たちが「多かったわけではなく」、と言っていて、いなかったとは言っていません。つまりコリントの教会は、決してインテリ層の集まりではなくて、商人や農民、あるいは解放奴隷など雑多な立場の人たちが寄り添い、群れを形成していたわけですが、裏を返せば、その中に少なからず上流階級も加わっていたことも忘れてはならないのです。実に、これが最初期の教会の最も印象的な特徴の一つです。社会的経済的地位が入り混じった信仰共同体、それがキリストの教会であって、実に、それが十字架の言葉によって集められた群れの姿であったわけです。
さて、続いて、その「知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者」、と呼ばれた者たちの立ち位置が示されます。「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。(27、28節)」。ここでは、立場が正反対である者たち同士の逆転が三度繰り返されていて、それは、いずれも、この世の立場の高いものと低いものとの逆転です。しかし、間違えてはならないのは、パウロは、「知恵ある者、力ある者」、あるいは、「地位のある者」が、そのまま悪いと言っているわけではないということです。あるいは、「無学な者」の方が、「知恵ある者」よりも偉いとか正しいとか、そういうことを言っているわけでもないのです。ここでは、「知恵ある者」であること、そのこと自体が悪いのではなくて、「知恵ある者」が、その知恵を誇ることが咎められているわけです。むしろ、「知恵ある者、力ある者、地位のある者」も神に召されていて、少数派であっても彼らもまた教会の一員になって福音の宣教と信仰生活を共にしていたわけです。
つまり、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び」、というのは、教会の中では、この世の知恵という基準が無効にされた、ということなのです。次の「力ある者も、地位のある者」も全く同じです。「知恵ある者、力ある者、地位のある者」と、その正反対の者たちが、全く同じ立場で交わることができる所、この世のあらゆる知恵や力や地位がフラットにされた場所、そこが教会なのです。
さて、その上で、パウロは十字架の言葉によって、社会的経済的地位が入り混じった信仰共同体として組織されたコリントの群れの本質的な姿を簡潔に示します。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。(30節)」ここでは、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」、とキリストとの結合が示された上での祝福の豊さが簡潔に示されていて、「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり」、というのは、主が共におられるというその信仰の現実です。
さらに、「義と聖と贖いとなられた」、とパウロは続けます。これは、簡潔に申し上げれば、私たちの救い恵みの全てです。「義」というのは、私たちにとって無罪宣告です。
「聖」というのは、「義」された私たちが、それで「めでたしめでたし」ではなくて、キリストの姿に変えられていく、という恵です(フィリピ3:20、21等参照)。
最後の「贖いとなられた」、というのは、いうまでもなくイエスキリストの十字架の贖いで、主イエスの十字架の贖いによって、私たちの赦しと命が確かであることが保証されたのです。「義」とされることで無罪宣告されて、「聖」とされることで救いの完成が約束された上に、さらに私たちにはその保証まで与えられた、ということです。イエスキリストの十字架は、私たちに約束されたあらゆる恵みの保証なのです。
最後にパウロは、結論付けます。 「「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(31節)」、これは、本日私たちをこの礼拝に招いた招きの詞でありますエレミヤ書からの引用です。
「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。(エレミヤ9:22、23)」、ここでも、「知恵」、「力」、そして「富」が誇りの対象とされています。
エレミヤの時代も、パウロの時代も同じなのです。人は、自らの「知恵」、「力」、そして「富」を振りかざして誇るわけです。しかも、見逃してはならないのは、いずれも、神の民の共同体の中で、このことが警告されているということなのです。 パウロがコリントの教会に、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(31節)」、と勧告します時、ここでは、「なるためです」、と記されているわけですから、実際はそのようになっていない、ということなのです。コリントの信徒たちは主イエスを誇らないで、自らの「知恵」、「力」、あるいは「地位」を自慢していたわけです。
前述の通り、社会的経済的地位が入り混じった信仰共同体、それがキリストの教会であって、それが十字架の言葉によって集められた群れのリアルな姿でありました。同時に、この多様性が招いた大きな問題が自らを誇るという信徒の姿であったわけです。
どうして、そうなるのか、それは、十字架の言葉によって集められたのにも関わらず、十字架の言葉で集まらないからです(ガラテヤ3:3に同じ論理が見られます、是非参照ください)。十字架を仰ぐのではなく、周りを見渡し、自分と比較してしまうからです。
ですから、「誇る者は主を誇れ」これは、「十字架の主だけを見つめよ」という警告と同じことです。
この世の基準では、集められる人は制限されます。しかし、十字架の言葉によれば、あらゆる制限が解除され、どんな人でも招かれている、だからこそ、そこに他者との比較やプライドのようなものが生まれてしまうのです。地上の教会は天使たちの集会ではなくて、罪人の交わりであるからです。
ですから、大切なのは、「兄弟たち」、この呼びかけが示す神の家族であることの信徒のアイデンティティーであり、続く、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」、この勧告なのです。私たちはつまらない者でありながら、ただイエスキリストの十字架によって救われて、神の家族の一員にされて、永遠の命が与えられたのです。そうである以上、どうして、その十字架の主イエスから目を逸らして、周りを見渡せるでしょうか、どうして自分自身を誇れるでしょうか。
私たちは、改めて、「召されたときのことを、思い起こして、「誇る者は主を誇れ」」、この御言葉に立って歩みたいと願います。