2026年05月10日「十字架の言葉(後)」

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18節 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
19節 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
20節 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
21節 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
22節 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
23節 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
24節 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
25節 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節

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説教の要約

「十字架の言葉(後)」Ⅰコリント書1:18〜25

私たちは、先週、今週と2回に分けて、Ⅰコリント書のテーマである「十字架の言葉」を謳った御言葉を読み進めています。

 そして先週は、21節まで進みまして、その後半部分で、「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」、と謳われていますように、福音宣教というのは、「愚かな手段」である、ということが明確にされていたわけです。しかし、「愚かな手段」である、と相対的に言われる以上、そうでない手段、つまり優れた手段もあるはずで、実は、それがこの段落の後半部分であります22節以下の議論の底流に流れている福音宣教とは対照的な見解なのです。

 その優れた手段というのは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、(22節)」、とパウロが鋭く指摘していますように、ユダヤ人に対してはしるしであり、異邦人に対しては論理的な説明であることになります。

つまり、「愚かな手段」から脱却するのは、実はそんなに難しくないのです。一方では、病がいやされた証し等で奇跡的な要素を混ぜればよくて、他方では自由主義神学のような立場で論理的に説得すれば評価されるからです。しかし、そこには本物の教会は建てられません。私たち改革派教会のビジョンは大きな教会ではなくて本物の教会なのです。

例えば、ビジョンとして大きな教会を目指すのなら、いくらでも妥協すればいいのです。「愚かな手段」を修正して優れた手段をどんどん採用すればよろしい。そこには伝道の大通りが開けていくでしょう。しかし、本物の教会を追い求めるのなら、「愚かな手段」から一歩もひいてはならないのです。愚直に十字架につけられたキリストを宣べ伝える、十字架の言葉に命をかける、その本物の教会への道は、実は細く狭いのです。

 実際パウロは、「すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが(23節)」、とこの「十字架の言葉」の宣教の客観的な評価を下します。ユダヤ人にとって十字架は神の呪いの象徴(申命記22:23)であり、異邦人にとって十字架は、遠い地の小さな都で起こった些細な出来事に過ぎず、奴隷やならず者たちの最期と同じで、そこにひとかけらの真理さえ見出すことなどできないからです。ソクラテスは、「悪法もまた法なり」と謳い、毒杯をあおって弟子たちに囲まれながら威厳ある最期を遂げました。弟子たちからも見放されて十字架で苦しみ喘ぎながら殺されたナザレのイエスとは正反対です。しかし、パウロは、そのナザレのイエス、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」である十字架の主イエスを掲げて一歩も引かないのです。

そして、パウロはそれを説明するために、「召された者」という全く違う者たちを登場させます。これは、この段落の最初の18節の十字架の言葉のテーゼの中にあります「救われる者」と同じ立場です。

パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と「十字架の言葉」の命題を掲げました。そして結論として、その「十字架の言葉」の何たるかを、改めて「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」、とこのように整理するわけです。

ここで、「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが」、と御言葉が言います時、そこにはもはや民族的な区別さえありません。老若男女、あるいはこの世的な身分や豊さなどももはや問われないのです。そもそも、教会の中でヒエラルキーのようなものが少しでもあるのなら、それは「神の力」と無関係に教会政治が行われている証拠です。「神の力」が働く以上、人間的な全ての力は退けられ、むしろ、最も弱々しいところに「神の力」は実現するからです。

その上で、非常に大切なことは、キリストの十字架は、0か100かそのいずれかであるということです。「滅んでいく者にとって」、それは0でしかないのですが、しかし、「救われる者、召された者には」100以外ではないのです。ここでは、人間側の内容は問われていません。「救われる者、召された者」、その中に人間的な良し悪しは問題ではないということです。私たちは終始受け身であり、救われるのも、召して下さるのも神の側だからです。私がどのように罪深い人間であろうが、神が救い、神が召してくださった以上、私たちは、「救われる者」であり、「召された者」以外ではないのです。キリスト教信仰におきまして救いは0か100であり、それ以外はないのです。

 とりわけ改革派信仰に立つ私たちは、十字架の一方的な恩恵によって救われる、という聖書的真理を主張して一歩も譲りません。しかし、信仰生活をする上で、周りが気になったり、他者を裁いたり、あるいは自分自身の救いを疑うことさえあるのではないでしょうか。それは主イエスを仰いでいないからです。救いが100である以上、よそ見をする必要はないのです。周りが気になる、それは90、80、あるいは、せいぜい50くらいの生き方です。真っ直ぐ十字架の主イエスを仰ぐ、ここに救いが100であることを確信した生き方と圧倒的な平安があるわけです。

そして、最後に、その理由をパウロは簡潔に示すために、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25節)」、と説明します。

ここで「神の愚かさ」、そして、「神の弱さ」、というものが、「人よりも」という言葉が繰り返されることによって相対的に比較されているように読めてしまいますが、それは違います。ここで、表現されています「神の愚かさ」というのは、神の属性とか御性質ではありません。そうではなくて、この「神の愚かさ」、そして、「神の弱さ」、この両者は、実は全く同じ意味で、すなわち十字架です。ですから、ここは、「十字架は人よりも賢く、十字架は人よりも強いからです」、と言い換えることさえできるわけで、こちらの方がわかりやすいでしょう。

これは、この世の視点とは正反対です。この世の視点で十字架ほど愚かなものはありません。同様に十字架以上に弱々しいものはありません。愚かさと弱さ、そして死の象徴が十字架なのです。しかし、神はそれを知恵と強さと、そして命の象徴に変えて下さった。大切なのは、この逆転なのです。

そうである以上、私たちは愚かであろうが、弱かろうが、あるいは死ぬべき肉体を持っていようが、それはもはや問題ではない、ということです。私たち弱くてもいいのです。愚かであろうが、ポンコツであろうが問題ではないのです。それが見事に逆転するからです。

むしろ問題なのは、強いこと、賢いことなのです。悲しむべきは、逆転すると困ってしまうような知恵と力に溢れている立場に安住していることなのです。弱いものは強いものに逆転し、強いものは弱いものに逆転してしまう、これが聖書を貫く真実だからです。この世のしるしや知恵と全く無関係なところ、むしろ愚かで弱いところ、そこにだけ「神の力」が実現するのです。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」、この愚かな十字架の言葉の宣教にだけ「神の力」を期待することが許されているのです。私たちの教派が、そして教会の伝道が低迷している状況において、最も優先すべきは、今こそ愚かな手段を徹底することでありましょう。