2026年04月19日「涙のプロローグ(後)」
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涙のプロローグ(後)
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コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節
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聖書の言葉
1節 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2節 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
3節 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
4節 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
5節 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
6節 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
7節 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
8節 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
9節 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節
メッセージ
説教の要約
「涙のプロローグ(後)」Ⅰコリント書1:1〜9
先週から私たちは、コリント信徒への手紙の講解説教に入り、そして、先週、今週と2回に分けて、このコリント書のプロローグ部分であります1:1〜9までの部分を読み進めております。先週も確認しましたように、この序文全体を読み解く最も重要な鍵は、記されている言葉の一つひとつにアイロニーが見られる、ということで、それによってこのプロローグ部分におきまして、本論で取り扱われる問題の伏線が張られているわけです。
今回のこの説教の要約では、まず簡潔にその序文と本論との照合を確認いたします。
①序文:「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。(4節)」⇔本論部分:「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。(4:7)」。ここで大切なのは、パウロが、教会に与えられた神の恵に視点を向けていることであって、人間側の業績には全く興味を示していない、ということです。恵というのは、ただで与えられるから恵なのです。しかし、いただいたはずの恵を、いつの間にか自分の創作物であるかのようにひけらかすような者たちが出てきたわけです。この序文のアイロニーはその伏線です。
②序文:「あなたがたはキリストに結ばれ、(5節)」⇔本論部分:「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない〜しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです(6:15〜17」。ここでは、複数の信徒の性的堕落が暴かれ、それによってキリストとの結合まで放棄してしまっている実態が警告されています。ですから、「あなたがたはキリストに結ばれ」、と神の恵を数え始めた時に、その恵を台無しにしているコリントの人たちの姿に嘆いているパウロの姿を思い巡らさずにはいられないのです。
③序文:「あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています(5節)」⇔本論部分:「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(2:1、2)」。パウロは、決して、あらゆる言葉、あらゆる知識を否定的に捉えているわけではありません。しかし、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされていることが、教会にとって理想的な状態であるなんてことは、ほんのこれっぽっちも思っていません。むしろ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされていても十字架の言葉に立っていなければ無に等しいという立場であり、ここでもこの序文で、本論部分の伏線が張られていることは明らかです。
④序文:「「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、(7節)」。⇔本論部分:「12章全体!」。ここでは、「与えられた恵み」という表現がありますが、この「恵み」という字は、もともとのギリシア語聖書では、「カリスマ( χάρισμα)」という言葉で、ここは「与えられた賜物」と訳した方がわかりやすいわけです。特に、この第一コリント書では、この「カリスマ( χάρισμα)」と言われる賜物の乱用が教会トラブルの大きな問題ともなっていて、12章全体がその問題解決のために使われているくらいなのです。
その上で、このⅠコリント書のプロローグのクライマックス部分へと進んで行きます。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。(8節)」。ここで、使われている、「非のうちどころのない」、というこの字は、新約聖書で、ここで初めて見られ、全体でも5回しか使われない比較的珍しい言葉です。しかも、パウロ書簡にしか見られず、パウロの信仰と神学を理解する上でとても大切な言葉です。特に、新約聖書におきまして、このコリント書で最初にこの言葉が使われた、という事実が重要です。先週から確認してまいりましたように、また、この後本論部分でさらに明らかになっていきますが、コリントの教会は多くのトラブルを抱え、教会として機能することさえ困難なくらいの堕落と腐敗にまみれていました。その欠点だらけの教会に向かってパウロは、「非のうちどころのない者にしてくださいます」、と言って憚らないのです。これがパウロの信仰であり神学ではないでしょうか。それだけ、神の力と導きとを大真面目に信じているのです、この信仰者は。
ですから、私たちが欠点だらけであることは問題ではないのです。最終的に、非のうちどころのない者にされてしまう、これは私たちと無関係ではなくて、むしろ罪人の頭であるこの私に与えられた約束だからです。これは、自らの罪に苦しむ私たちにも痛いほど響く信仰のエールであります。
さらにパウロは続けます。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(9節)」。
「神は真実な方です」、ここに、私たちに与えられたすべての約束が担保されています。
同時に、これも非常に含蓄のある深い言葉ではないでしょうか。「神は真実な方です」、といいます時、私たちは真実ではないからです。私たちは真実ではなくても、神は真実な方であるから、聖書の約束は何一つ違わないのです。そして、コリントの信徒たちが今どのような状態にあろうが、それとは無関係に、罪許され、永遠の命の約束がまず与えられている、その事実が、「あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」、と謳われているのです。
これから本論に入り、改めてコリントの教会の嘆かわしい姿が次々に映し出されていきます。それらは、まるで教会トラブルの展示場であります
今朝も先週に続き、「涙のプロローグ」という説教題が与えられました。実に、パウロの生涯全体が涙のプロローグでありました。彼は、血と汗と、そして涙を流しながら十字架の言葉であるキリストの福音を宣教しました。そして、それが用いられて地中海世界に教会が建てられていったことは事実です。しかし、その教会がことごとく問題を抱え、パウロからどんどん離れていってしまったのです。
パウロの書簡が見直され、その神学に注目が当てられたのは、パウロの死後20年ほどたった頃でありまして、パウロが地上を去る時に、彼の周りにいた仲間はほんの数名だったのです。最初期のキリスト教の枠内にあってもパウロは少数派の中の少数派で、メジャーであったグループからは異端視さえされていました。ですから、地上を歩む上では、彼は成功者ではありませんでした。むしろ敗北者であり、負け犬のような立場で、見せ物になってむごたらしく殉教していったのです。
しかし、その現実の中で、この信仰者にとってそれは涙のプロローグに過ぎなかったのです。
彼は、永遠の命を確信し、天の国の希望を大真面目に信じ、語り続けたのです。
改めて読み返してみますと、このコリント書のプロローグは、パウロの伝道人生の縮図のように思えてならないのです。
私たちも歩んできた道を振り返った時、辛いことや悲しいことが多くて、ふと、私の人生はなんだったのか、というやりきれない虚しさが込み上げてくることはあるのではないでしょうか。信仰者だからといって全てがうまくいくわけではありません。むしろ信仰を与えられた途端に困難に襲われることも多いにあり得るわけです。しかし、キリスト者である以上、地上の歩みは永遠の命のプロローグに過ぎません。それが涙のプロローグであろうがあるまいが、「神の子」とされ、「主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」以上、私たちの想像を超えた喜びが必ず約束されているからであります。