2026年04月12日「涙のプロローグ(前)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2節 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
3節 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
4節 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
5節 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
6節 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、
7節 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。
8節 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。
9節 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節

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説教の要約

「涙のプロローグ」Ⅰコリント書1:1〜9

この主の日からコリント信徒への手紙の講解説教に入ってまいります。私たちは以前ローマ書講解を続けていましたが、このコリント書は、そのローマ書と同じ使徒パウロによって執筆された書簡で、執筆された目的は、パウロの開拓伝道が用いられて建てられたコリントの教会に起こったトラブルを和らげるためでした。今朝与えられたこの箇所は、コリント書のプロローグ部分であり、まずここでは、パウロからコリントの信徒たちに向けての挨拶が記されています。この御言葉も、非常に大切な内容が凝縮されていますので、一度の説教で全体を解き明かすことは到底できません。それで、今週と来週の2回に分けて、本日は3節までの段落を中心に丁寧に教えられたいと願います。

まず大切なのは、この序文全体を読み解く上で最も重要な鍵は、一つひとつの言葉にアイロニーが見られる、ということです。ここで、最初に「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ(1節)」、とパウロは、自らの使徒としてのアイデンティティーを確認します。しかし、コリントの教会は、パウロの開拓伝道が用いられて建てられたキリストの教会なのですから、パウロが「キリスト・イエスの使徒」である、なんてことは百も承知であって、ましてや強調する問題であるはずはないのです。つまり、そのように強調せざるを得なかった事情があった、ということなのです。

 ですから、この序文を読み進めていく上で、私たちは常にその裏側を見抜いていかなければならないでしょう。講解説教を続けていくうちに次第に明らかになってまいりますが、実は、パウロがコリント伝道を終えて、この地を離れた時から、パウロは本当の使徒ではない、と批判する一派が幅を利かせるようになっていったのです。これがこのパウロの使徒性の強調の背後にあるわけです。

 その上で、パウロは次にコリントの群れに目を向けます。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります(2節)」。この節は、特にその冒頭が、もともとのギリシア語聖書と言葉の配列が少し違いまして、まず文頭には、「教会」、という字が置かれています。ギリシア語聖書本文の語順で言えば、「教会」、「神の」、と続いて、それがコリントにあることが示されていきます。つまり、ここでは、「コリント」という地名より遥かに「神の教会」、というその存在が強調されているわけで、ここにもアイロニーが見られます。これもいずれ本文で明らかになりますが、分派争いや性的堕落が蔓延して、その有様はこの世の以上に腐敗が酷かったとさえ言われるコリントの群れを、パウロは、「神の教会」である、と言って憚らないのです。とても「神の教会」などとは言えない群れを、パウロは「神の教会」と普通に呼んでいるのです。つまり、「神の教会」というのは、信徒の状況やその働きがあるべき水準を満たすから「神の教会」である、というわけではないと言うことです。信徒がどうであろうが、その状況や働きがどうであろうが、神がそこに建てられた以上、そこは「神の教会」なのです。「神の教会」というのは私たちの基準や評価ではなくて、神の決定にその根拠があるわけです。

 さらに、ここで大切なのは、パウロのアイデンテティーとコリントの教会のアイデンテティーに調和が見られるということなのです。先ほどの1節ではパウロの使徒としてのアイデンティティが表現されていました。そして、それと対になるかのように、ここではコリントの教会のアイデンテティーが謳われるのです。それがこの「神の教会」であり、続く、「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」、この部分であります。これがコリントの教会のアイデンテティーであります。「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」、とパウロが謳います時、コリントの教会は孤立していないのです。つまらない内輪争いに夢中になっているこの群れでさえ、当時の地中海世界一体に広がる信仰共同体のネットワークのメンバーである、とパウロは言うのです。ここでは、小さなアイロニーが、壮大なビジョンへの架け橋とさえなっているわけです。皮肉さえなお希望になりうる、ここにキリスト教信仰の底知れない力と迫力がございます。

 さらに、パウロは、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」、と続けます。これは1節の、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」、というパウロの立場と実に見事に符号いたします。パウロが、「キリスト・イエスの使徒」であるなら、コリントの信徒は、「キリスト・イエスの聖なる者」であり、パウロが、「召されて使徒となった」のと同様に、コリントの信徒たちは「召されて聖なる者とされた人々」に他ならない、この両者の鮮やかな一致です。パウロは、コリントの信徒たちに憤っていて、彼らによって悲しみに暮れています。そもそも、それゆえに今手紙を書いているのです。他方、コリントの信徒たちはある者はパウロを非難し、ある者は嘲笑い、あるいは無視する、両者は対立構造にあり、まるで水と油です。しかし、その水と油が調和してしまうのです。キリスト・イエスの名によってそして、神の御心によって相容れない両者に一体感さえ生まれてしまう。その時、この両者のアイデンティティは同じ肩書きで一体的にされてしまうのです。この事実が非常に重要で、これも「神の教会」と「この世の集会」との大きな違いです。

また、ここでは、コリントの信徒たちが、繰り返して「聖なる者とされた人々」という表現で謳われているのも大切です。「聖なる者」というのは、信心深いとか、倫理的に正しい、という意味ではありません。そうではなくて、「聖なる」、というのは、神によって取り分けられたことを意味する言葉であって、つまり、「聖なる者」というのは、神の行為を示す言葉なのです。ただ、主イエスキリストの十字架によって、そして神のご計画と一方的な恵によって、「聖なる者とされた人々」なのであって、その状態がいかにかけ離れて見えようが、彼は「聖なる者」である、これが聖書の立場なのです。

自分が聖なる者であると自覚できるキリスト者はいないと思います。しかし、「聖なる者」というのはそのような主観的な評価ではなくて、客観的にそのようにされているわけなのです。

 本日は、「涙のプロローグ」という説教題が与えられました。涙を流しながらこの序文を認めているパウロの姿がはっきりと見えるからです。パウロの一年半の自給伝道よって生み出された大切な群れが(使徒言行録18:1〜17参照)、教会として機能することさえままならない状態になってしまった、そのショックは如何ばかりであったでしょう。しかし、最後にパウロは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(3節)」、と極めて澄み切った表現で定式通り頌栄を謳うのです。どうしてでしょうか。それは、「恵みと平和」は、あるはずもないところにあるからなのです。父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和というのは、全くそれを受けるに相応しくないところに豊に注がれるからなのです。これが信仰者の希望の法則ではないでしょうか。

「恵みと平和」は、あるはずもないところにある、これです。実に、私たちの神の憐れみに私たちの希望の全てがかかっているのです。パウロは、今は遠く離れて何もできない、しかし、必ずや、父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和はコリントの信徒の上に注がれる。そこにだけ希望が見えるわけです。

新しい年度に入り、いきなり大きな困難にぶち当たっておられる方も少なくないでしょう。世界情勢を見ても胸が締め付けられることばかりです。それこそ、新年度スタートのこの私たちの今が、「涙のプロローグ」です。私たちは、この世の現実にしばしば失望さえいたします。しかし、私たちは失望しても絶望することはあり得ません。「恵みと平和」は、あるはずもないところにあるからです。