2026年03月22日「旅立ちの日に-Ⅲ」
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旅立ちの日に-Ⅲ
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 21章20節~25節
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聖書の言葉
20節 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21節 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
22節 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23節 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
24節 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25節 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
ヨハネによる福音書 21章20節~25節
メッセージ
説教の要約
「旅立ちの日に-Ⅲ」ヨハネ福音書21章20〜25節
私たちは、このヨハネ福音書の最後の21章を「弟子たちの卒業式」に準えて御言葉に聞いてまいりました。それが、ちょうどタイミング良く、この卒業シーズンに合わせて、3回に分けて与えられてきたわけです。本日がその最終回で、私たちも、いよいよ本日このヨハネ福音書講解説教から卒業し、次のステージへと共に歩んでまいります。
先週の箇所は、体育館のような広い場所での卒業式のそのセレモニーの後、教室に戻ってからのシーンに例えることが許されました。教室に戻ると、黒板に担任の先生の最後の板書が綴られていて、その時は、ボンヤリとしか見えなかった文字が、生きていくうちに少しずつ鮮明になっていって、やがて大きく心に響いていく、という文脈で共に御言葉に教えられました。そして、主イエスが弟子たちに残された最後の板書、それは、「わたしに従いなさい」、でありました。
本日の御言葉を、卒業の日のその次の場面で、いよいよ名残惜しくもその教室からグランドへ出て、校門まで歩く最後の時間の情景に当てはめるとしたら、ガリラヤ湖の岸辺で、いよいよ主イエスのもとから巣立ってく弟子の心境もこれに似たところがあったように思います。特にペトロです。
ここで、「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた(20節)」、とあります。卒業式の日に同級生の進路はやはり気になります。それでペトロは「彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った(21節)」わけです。
それに対して主イエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。(22節)」、と言われました。つまり、「この人はどうなるのでしょうか」、それはペトロの守備範囲ではないということで、ペトロにも「イエスの愛しておられた弟子」にも、それぞれ違う神のご計画があるわけで、それは、横槍を入れてどうこうできる問題ではない、ということなのです。ペトロの務めは、同級生である他の弟子たちの心配をすることではなくて、「あなたは、わたしに従いなさい」、と主イエスが言われた通りに、ただ自分が主イエスに従うことであったのです。
しかし、実は、このペトロの質問の答えは、このヨハネ福音書のエピローグ部分で与えられているのです。それは、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。(24節)」、この御言葉です。ここで、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」、とあります「この弟子」というのは、いうまでもなく、「イエスの愛しておられた弟子」であります。ですから、実に、これが「主よ、この人はどうなるのでしょうか」、というペトロの質問の回答になっていて、「イエスの愛しておられた弟子」がどうなったのか、それは、このヨハネ福音書を執筆した、そのように主に用いられた、と今御言葉は遠い日のペトロに答えるわけです。ペトロは、このヨハネ福音書が執筆された30年ほど前に殉教し、この「イエスの愛しておられた弟子」もこの世を去りました。しかし、二人の進路は違うものであったのです。ペトロは、十字架で殺されることによって神の栄光を現し、もう一人の弟子は、福音書を執筆することによって神の栄光を現した、とこのように、卒業後に両者に与えられた進路をこの福音書は最後に振り返るのです。もちろん、このエピローグ部分、あるいは、この福音書のプロローグから、本論、と全てに編集の手がナレーション等によって加わっていることはいうまでもありません。
ですから、「イエスの愛しておられた弟子」、というのは、ヨハネ福音書の執筆者というよりは、証言者であり、ヨハネ学派と呼ばれる信仰共同体が、彼の証言をまとめて整理して、最終的にこの福音書を書き上げたのであって、この「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」、というくだりは、そのヨハネ学派の証言であります。
その上で、最後に編集後記を追加してこの福音書は完結いたします。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。(25節)」、つまり、この福音書で描かれた主イエスの姿は、その一部にすぎない、ということであります。しかし、あくまでも、これは、このヨハネ福音書の目的が達成されての上での、尚書であります。繰り返すようですが、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである(20:31)」、これがヨハネ福音書執筆の目的であり、このように謳える以上、この福音書の本論部分でこの目的は達成されているはずだからです。この書物は、「イエスは神の子メシアであると信じるため、また、信じてイエスの名により命を受けるため」に十分な内容を含んでいるわけなのです。
その上で、最終的にこの福音書の編集者は、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」、と断りを入れて、筆を置いたのであります。
これは、今朝、この福音書の御言葉を修了した私たちに対するチャレンジのようにも響きます。
「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」、と御言葉が言う以上、主イエスの書物を収める余地はまだ残されているからです。
パウロは、コリントの信徒たちに、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています(Ⅱコリント3:2、3)」、と私たちキリスト者がキリストの書物である、と謳っています。信仰者は、キリストの手紙であって、そうである以上、この世の中でキリストの言葉として機能していく、ここに私たちキリスト者の役割があるわけです。ですから、「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」、これは、決して地上におけるキリストのお働きを誇張するための追記ではないのです。そうではなくて、私たち一人ひとりがキリストの書物となってこの世に遣わされて勤しむその希望を指し示しているのでありましょう。
ヨハネ福音書は、「初めに言があった」と神の言葉であるイエスキリストを宣言して始まりました。そして最後に、私たちが、キリストの言葉としてお役に立てることを展望し完結するのです。
「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」、では私たちがキリストの言葉でこの世界を満たしていこうではありませんか。
このヨハネ福音書の最初からここまでの説教の回数は141回でした。ヨハネ福音書は、21章までしかありませんので、これは聖書主義を標榜する私たち改革派教会にあってもとても多い回数だと思います。例えば、教派の中でよく知られています榊原康夫牧師のヨハネ福音書講解は、上巻から下巻までの3冊で構成されていて、その説教のタイトルは全部で97回です。もちろん、回数が多い少ないで説教の良し悪しが決まるわけではありません。しかし、私たちの群れには、141回の御言葉が必要であった、そしてそれを全てキリストが与えてくださった、これがとても重たいのです。私たちには97回ではダメだったのです。その一つひとつが、一字一句が、私たち高島平キリスト教会の信徒のためのキリストの言葉であり、神の愛と憐れみ、そして私たちの信仰と祈りの結集であります。
私たちには、まだ説教集を出版することは難しいのですが、大変便利な時代でありまして、全ての説教動画がホームページ上にアーカイブとしてストックされています。これらが、少しでもこの世界の闇に響いて、キリストの言葉の領域を拡大するために用いられることを願いつつ、ヨハネ福音書講解説教を完結といたします。