2026年03月15日「旅立ちの日に-Ⅱ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

15節 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
16節 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
17節 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
18節 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
19節 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書 21章15節~19節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「旅立ちの日に-Ⅱ」ヨハネ福音書21章15〜19節

先週から、このヨハネ福音書の最後の21章を「弟子たちの卒業式」に準えて御言葉に聞いています。尚、卒業式の文脈に当てはめることが許されるのなら、本日の御言葉は、卒業式が終わった後の恩師と教え子との会話のように記録されていきます。体育館のような広い場所での卒業のセレモニーの後に、教室に戻ると黒板に恩師のメッセージが綴られていたことを思い出します。その時はボヤッとしか見えなかった文字が、生きていくうちに少しずつ鮮明になっていって、やがて大きく心に響いていく、そういうことはよくあるのではないでしょうか。その日、担任の先生は、余計なことは書かないのだと思います。生徒一人ひとりを心配して、大切な生徒がこれから生きていくためのメッセージ、それが最後の板書ではないでしょうか。まさにそのように、本日の箇所から、主イエスは、大切な教え子がこれからキリスト者として生きていく上で、何よりも大切なことを告げられるわけです。

ここで、主イエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」、と三度ペトロに問いかけました(15〜17節)。 これは間違いなく、三度主イエスを否認したペトロの立場に対応しています。

ですから、「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった」、とペトロの胸の内が綴られます。ペトロは、三度主イエスに「わたしを愛しているか」と言われた時、改めて三度主イエスを知らないといったあの夜にフラッシュバックしていたはずです。

そこでペトロは回答します。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。(17節)」、最後の回答でペトロは、「あなたは何もかもご存じです」、という言葉を追加しました。これは、主イエスが、ペトロの罪深さ、臆病さも含めて全てお見通しです、ということでありまして、その弱さのゆえに、主イエスを裏切り見殺しにした事実まで含んでの、「何もかも」なのです。しかし、同時に、それでもペトロは、そのような罪人を赦すどころか、愛してくださる主イエスを信頼しているがゆえに、「あなたは何もかもご存じです」、と言えたわけです。

 ですから、大切なのは、ペトロがどういう男であるか、ということではないのです。そうではなくて、主イエスがどういうお方であるか、こちらの方が大切なのです。十字架の主イエスの前では、裏切り者でも嘘つきでも臆病でも問題ないのです。大切なのは、それを赦し、受け入れてくださる主イエスへの信頼なのです。これがキリスト教信仰の本質です。私がどういう人間であるかではなくて、イエスがどういうお方であるか、それが問題であるのです。私が罪人の頭であろうが、偽善者であろうが、主イエスは、「何もかもご存じで」招いてくださっている。全く相応しくないものが、主イエスを愛することが許されるのです。「私にはあなたを愛する価値などない」、などというセルフはよく耳にいたします。しかし、愛する値打ちがない者にその資格を与えてくださるのが十字架の主なのです。

 主イエスは、この信仰告白に対して、三度、「わたしの羊を飼いなさい」、と繰り返されます。かつて三度主イエスを否んだペトロに、主イエスは三度「わたしの羊を飼いなさい」、と勧告するわけです。

 聖書で3回というのは、それが確かである、変更されることはあり得ない、そういう意味を持ちます。ですから、これによって両方の3回が見事に相殺されて、過去のペトロの裏切りが帳消しにされ、その代わりに牧会者という務めが与えられたことがはっきりと示されたのです。これは驚きです。しかし、同時に、「わたしの羊を飼いなさい」、これは極めて重たい言葉であります。ペトロが養うのは、「わたしの羊」、すなわちキリストの羊だからです。彼は在学中、それがどういう役割であるか、主から聞いてきたはずです。それが、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(10:11)」、これです。そうである以上、ペトロには、そのキリストの「羊のために命を捨てる」ことも求められるのです。ですから、続いて主イエスは卒業後のペトロの歩みを簡潔に予告します。

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(18節)」、ここで、「両手を伸ばして」、と言うくだりがありますが、これは、ギリシア語の慣用的な表現で、十字架刑の専門用語であると言われています。つまり、ここでは最終的にペトロが十字架で殉教することがはっきりと予告されているわけです。

ですから、すかさずナレーションが入ります。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた(19節)」。

主イエスが十字架で殺された場面を学ぶ時にしばしば確認されますが、この時代、十字架刑と言うのは、これ以上ない惨たらしい刑罰であると同時に、神に呪われた者の末路と信じられていました。しかし、ここで主イエスは、十字架刑が神の呪いではなく、逆に、「神の栄光を現す」ことにほかならない、とその概念を180度転覆させておられるのです。

聖書では、記録されていませんが、ペトロは、紀元62年頃にネロ皇帝の迫害のもとで、十字架刑(しかも逆さ十字架)で殉教したという伝説は残っています。見方を変えれば、なんとも寂しい殉教ではありませんか。歴史的信憑性に欠けるような、伝説なようなものでしか、ペトロの十字架の記録は残されていないからです。世界史の中では、「いつ死んだかもよくわからない男」、それがシモンペトロでありました。しかし、聖書はその死が「神の栄光を現す」ものであったことをはっきりと示すのです。それで十分ではないでしょうか。

その上で、この「わたしに従いなさい」、と言うのが、主イエスの最後の板書であります。ペトロがここから巣立って、福音宣教者として勤しむその瞬間瞬間に、この板書の文字が蘇ってきたのではないでしょうか。何よりも、彼が十字架で殺される時に、「わたしに従いなさい」、この主の言葉が、最も鮮やかに、立ち上がったはずです。

そして、「わたしに従いなさい」、実にこれは、ヨハネ福音書の講解説教の全過程を終了して、卒業の時にある私たちにも響いています。これがキリスト者であることのアイデンティティーだからです。私たちは周りを見渡す必要もなければ、自分の弱さに苦しむ必要もない。主イエスを見つめて、主イエスに従えば問題ないのです。

前述の良い羊飼いの文脈で主イエスは言われます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(10:27、28)」、ここで、「彼らはわたしに従う」、とありますこの「従う」と言う字が、「わたしに従いなさい」、この「従う」、と全く同じ言葉です。

ですから、「わたしに従いなさい」、それは、「永遠の命」の約束を伴い、「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」、と最後までイエスキリストによって守り導かれることが確定された主の言葉なのです。つまり、「ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた」、この時から、ペトロが迫害されようが、牢に投げ込まれようが、そして最後に十字架で殺されようが、永遠の命と主の導きは何一つ違うことはない、と言う約束が彼に続くことになったわけです(詩編23編)。

 人間は、誰でも死に向かって一歩ずつ歩んでいます。ハイデガーと言う哲学者が人間を「死への存在」、と呼んだのはあまりにも有名です。彼は「死という確実な未来を予期しながら、今生きている存在である」、と人間を定義しました。その通りでありましょう。しかし、主に従う以上、私たちは命に向かって歩んでいるのです。私たちは死という暗闇ではなくて、一歩ずつ栄光の主イエスに近づいているのです(讃美歌320)。