2026年03月08日「旅立ちの日に-Ⅰ」
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旅立ちの日に-Ⅰ
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 21章1節~14節
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聖書の言葉
1節 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
2節 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
3節 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4節 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5節 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6節 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
7節 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
8節 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
9節 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
10節 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
11節 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
12節 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
13節 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
14節 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
ヨハネによる福音書 21章1節~14節
メッセージ
説教の要約
「旅立ちの日に-Ⅰ」ヨハネ福音書21章1〜14節
先週でヨハネ福音書講解説教は、20章まで終わりました。
そして、先週の説教の冒頭で確認しましたように、このヨハネ福音書のもともとの本文は、20章までで、21章はその本文の付加部分であるという理解が一般的であります。しかし、だからと言って、この最後の章で記録されている内容が薄っぺらいとか、つまらないものであるとか、そういうことではありません。むしろ、この最後の21章は、最終的に本文に追加しなければならなかったほどに重要な内容を含んでいるわけなのです。
本日の3月第二週から本格的に卒業シーズンが始まります。学生たちは、通い慣れた学舎を卒業し、期待と不安を持って未来へと歩んでいきます。私は、このヨハネ福音書21章は「弟子たちの卒業式」と申し上げてもよろしいと思っています。約3年間主イエスと共に歩んだ時間がここで終わり、地上的な状況では、彼らはイエスのもとを巣立って、ここから新しい働きに召し出されていく。これは、まるで学生が、三年間の全過程を修了し、恩師のもとから巣立っていくその姿と重なるわけです。
そして、これは私たちにも言えることであります。私たちは、2022年の暮れから、約3年3ヶ月という長い時間をかけて、共に、この御言葉に学んでまいりました。先週の20章の最後を持って私たちもその全過程を終えて、まるで卒業式の朝のように今ここに招かれているわけです。
本日の御言葉で特に大切なのは、「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである(12節)」、この弟子たちの姿です。このヨハネ福音書講解の中で、この福音書の主題は、「イエスは誰か、イエスは何者なのか」、ということである、と繰り返し確認してまいりました。弟子たちは、その回答を「あなたはどなたですか」と問いただす必要もなく理解していた、彼らは、イエスが主であることを知っていたのです。弟子たちは、卒業するための及第点をいただいていたということです。「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである(20:31)」、この信仰は、弟子たちの中では確立されていたわけなのです。
しかし、それでも尚、まだ彼らはふらふらしていました。得手して、卒業の日というのはそういう状態ではないでしょうか。これから巣立っていく上で、まだ彼らには決定的に足りないものがあったわけです。それが、ここで主イエスによって示されたわけで、この21章が本文に追加された理由の一つでもあります。ではそれは一体何であったのか、それを二つ確認いたします。
一つは、主イエスが不在であったということです。
彼らは、今までと違い、目には見えない主イエスに従い、宣教を始めるそのスタート地点にいました。当然、この世に向けて福音宣教をするためには、彼らのこの地上での生活も大切になってくるわけです。それで、かつてプロの漁師であった彼らが、しばしば漁をして生活の費用を何とか調達していた、これはごく自然なことだと思うのです(3節)。
イエスもそれを否定したわけではありません。「こんなところで何やっているのだ」、なんて主イエスは言われていません。むしろ、「今とった魚を何匹か持って来なさい(10節)」、とその弟子たちの収穫を用いて主の食卓に充てて下さったわけです。
では、彼らは何が間違っていたのか。それは主イエスが不在であった、ということです。
「シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。(3節)」、とあります。「わたしは漁に行く」、なのです。「わたしたちも一緒に行こう」、なのです。
ここには、「わたし」、というペトロと、「わたしたちも」、という他の弟子たちしかいません。主イエスはおられないのです。
その後、「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」と続きます。この弟子たちが乗り込んだ舟というのは、教会の比喩にもなりましょう。そこにも主イエスは不在であったのです。
では主イエス不在の教会で何が起こったか、「しかし、その夜は何もとれなかった」、これです。
主イエスが不在である時、収穫はないのです。この福音書の15章のブドウの木の喩えの中で、主イエスが、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(15:5)」、と言われていた通りです。
しかし、「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた(4節)」、と不在であった主イエスの方が、この場所に来て下さったのです。これが決定的に重要です。「既に夜が明けたころ」、とありますのは、暗闇に光が差すように、そこに主イエスがおられたことを婉曲的に謳うのでありましょう。
その上で大切なのは、「イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(6節)」、彼らは、主イエスの言葉に従って改めて漁をしたら大漁であった。これなのです。
弟子たちは、主イエス不在で、彼らの経験や能力を頼りに夜通し勤しんだが何も起こらなかったのです。しかし、主イエスの言葉により頼み従った途端、その状況が一変したのです。彼らは、その時初めて湖畔に立つ主イエスを認めたのです。この主イエスの言葉は、今で言います聖書の言葉と言えましょう。舟に喩えられる教会は、主イエスが目に見えない状況で福音宣教に勤しみます。しかし、主イエスは不在ではなくて、御言葉とともにこの場所におられるのです。ですから、大切なのは、私たちの思いや都合ではなくて、まず御言葉に聞いて、福音宣教に勤しむということなのです。
もう一つは、弟子たちが主イエスに従う入学の時も、主イエスから巣立っていく卒業の日も同じ場所で、同じ御業が行われた、ということです。(ルカ福音書5:1〜5は、同じ不漁から大漁の出来事が記されていて、この日ペトロたちがイエスの弟子になった、ということで、ここを入学式と位置付けている。)弟子たちがイエスと歩んだ3年間という在学中に著しく成長していたのなら、明らかにこんなことする必要はなかったでしょう。しかし、主イエスはあえて同じことをされて弟子たちの信仰の目を開かれたのです。それだけ、彼らは成長していなかった、ということではないでしょうか。
そもそも、信仰というのは成長するものではなくて、常に与えられるものなのではないでしょうか。
信仰は私たちが作り出すものではなくて神の一方的恩恵によって与えられるものだからです。
そして、それは一度与えられて「めでたしめでたし」ではないのです。言ってみれば、信仰というのは、神の力が私たちの中で働いているその証拠だからです。
ですから、大切なのは信仰が成長するとか強くなる、という私たちの内側の問題ではなくて、常に信仰が与えられているのか、という外からの恵に関する問題なのです。
このヨハネ福音書講解を共に与えられた3年間、私たちの信仰は成長したでしょうか。自信がない方の方が多いのではないでしょうか。私もその一人です。しかし、ペトロは相変わらずペトロであった、と聖書はいうのです。最初から最後まで主イエスの前で恥を晒しながら生きていく、このペトロの姿に強烈なシンパシーを感じないでしょうか。わたしはわたしなのです。逆立ちしてもわたしはわたしなのです。しかし、その私を愛し、この私のために主イエスは十字架で死んでくださったのです。この麗しい春の日、新しい始まりの時、改めてこの何ともつまらない私を愛し、最後まで導いてくださる主イエスを仰ぎ、日々新たにされていきたいと願います。