2026年03月01日「幸いな者」

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24節 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25節 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26節 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27節 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28節 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
29節 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30節 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
31節 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
ヨハネによる福音書 20章24節~31節

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説教の要約

「幸いな者」ヨハネ福音書20章24〜31節

本日で、20章全体が終わります。ここでは最後にヨハネ福音書の結論が謳われていて非常に重要な御言葉です。前回の御言葉で、主イエスが弟子たちに現れた場面が記録されていましたが、そこに12弟子の一人であったトマスがはいませでした(24節)。これがきっかけになって、「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。(25節)」、と予想外の展開になってしまいました。ここで弟子たちの証言を聞いたトマスの態度は、疑い深く、大変ネガティブに見えますが、これは決してトマスだけの問題ではないのです。他の弟子たちも同じです。彼らもかつて、マグダラのマリアの復活証言を聞いた時は、何事もなかったかのように、相変わらず潜伏先で束になって怯えていたからです(18、19節)。

 しかし、次の主の日に、また主イエスは弟子たちのところに現れて(26節)、主イエス不在の時にトマスが要求した復活のしるしを、主イエスはそのまま彼に提示します(27節)。その時ようやくトマスは、 「わたしの主、わたしの神よ」、と言って信じることができるようになったわけです。

 このトマスに対して主イエスは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。(29節)」、と言われました。ここで、主イエスがトマスに言われていることは、キリスト教信仰において決定的に必要な要素です。キリスト教信仰は、見えない神を信じることに他ならないからです。

 その上で大切なのは、「イエスはトマスに言われた」、とここでは「言われた」、と過去形で訳されていますが、もともとのギリシア語聖書の本文では、ここは現在形であるということです。そして、ギリシア語の現在形というのは英語の現在進行形のように機能しますので、ここは厳密に訳せば「イエスはトマスに言われている」、となります。つまり、これは、過去、現代、そして未来、とこの御言葉に聞くすべての人類に対して、復活の主イエスから与えられた命題なのです。

 「見ないのに信じる人は、幸いである」、この主イエスの言葉は、再び主イエスが来られるその日まですべての人に向けられた命題として常に現在進行形で語られているわけなのです。

実に、トマスは、復活を信じることができない全人類の代弁者と言えるのではないでしょうか。

復活が信じられないのは、科学的な知識を持つようになった近代人以降のお話ではないからです。主イエスが復活された時代にあっても、「わたしは決して信じない」、というトマスの立場が極めてノーマルであったわけです。ですから、死者の復活というのは、古代も現代もそして未来も「わたしは決して信じない」、という人類の立場に向けて宣言されている聖書の真理なのです。

それが歴史的事実であっても、証拠がないかぎり、「わたしは決して信じない」、とこの世はトマスと共にそれを否定するわけです。しかし、実にそれを宣教するのが私たちの務めなのです。

では、どうすればいいのか、ここに究極的な伝道の課題があり、これを解く鍵は、このヨハネ福音書の結論にあるように思います。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(31節)」、これです。すなわち、「イエスは神の子メシアであると信じるため」、そして、「信じてイエスの名により命を受けるため」にこの福音書は書かれたのであって、たとえそれ以外にメリットがあったとしても、それは全くつまらないものに過ぎないわけです。実に、これが伝道の課題を解く鍵ではないでしょうか。

 私たちの福音宣教も、「イエスは神の子メシアであると信じるため」、そして、「信じてイエスの名により命を受けるため」、という明確な目的に向かって行われるわけで、それ以外ではないのです。

 そうである以上、キリスト教信仰に入るために、条件やハードルのようなものはいらないのです。急に節制しなさいとか、性格を変えなさいとか、そういうことを聖書は言わないのです。大切なのは、たった一つ、悔い改めることなのです。しかし、それが難しいのです。一人の罪人が悔い改める難しさ=伝道することの難しさという公式が、常に私たちの目の前に提示されているわけです。

 以前、今年度の年間聖句でありますコヘレトの言葉の説教の最後に申し上げましたように、私たち信仰者は「天国行きの列車」にすでに乗っていて、そこからプラットホームにたたずんでおられる方を観察しています。しかし、そのお一人おひとりの戸惑いは、列車の中にいてはわかりません。その時私たちは、「大切なのは、天国行きの列車から降りて、この世界を観察することである」、という結論を一度共有しました。しかし、今日、これにもう一つ追加したいのです。

 それは、「天国行きの列車」から降りて、この世界を観察するだけではなくて、「天国行きの列車」から降りて、その「天国行きの列車」の中を観察する、ということで、実に、トマスがその立場であったのではないでしょうか。彼一人、「天国行きの列車」に乗り遅れて、「わたしたちは主を見た」という電車からのアナウンスが戯れごとのように聞こえたからです。しかし、その彼に十字架の主イエスが現れたとき、その疑いはものの見事に崩れたのです。どうしてか。それはトマスの前に現れたのが十字架のイエスであったからです。彼は、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」、とイエスの十字架の傷跡に信仰の証拠を求めました。しかし、結局それは信仰の証拠ではなくて悔い改めの道標となったのです。信じるために必要なのは証拠ではなくて悔い改めなのです。

彼は、十字架の主イエスの手と脇の傷跡を見て、何を思ったでしょうか。自分の罪深さに打ちのめされたのではないでしょうか。イエス様を裏切り、逃げただけでなく、復活の主までも信じなかった自分が、惨めで愚かで恥知らずな罪人に見えたはずです。その罪と恥から救われたい、と。

ですから、大切なのは、十字架のイエスキリストがはっきりと示されることで、そうである以上、「天国行きの列車」の中に乗車している私たちの身なりのようなものは問題ではないのです。「天国行きの列車」は天国にふさわしい人たちのサンプルではないからです。イエスの弟子たちも全滅でした。

この列車の中には、みすぼらしいものもいれば、病んでいるものも、まどろんでいるものもいる。ここには多種多様な人たちが乗車しているのです。しかし、大切なのは、一人残らず、この列車に乗らなければ生きていけないという事実であり、だから私はこの列車の乗客である、という姿であります。

私たちは、どうして信仰者なのか、どうして教会という「天国行きの列車」にのっているのか、それはイエス様がいなければ生きていけないからに他ならないからです。

一人の罪人が悔い改める難しさ=伝道することの難しさ、と先ほど記しました。しかし、私という一人の罪人が悔い改めたのは、そんなに難しいことであったでしょうか。むしろ、そうするしかなかった、というのが正直な思いではないでしょうか。私たちもまた、トマスと共に、「わたしの主、わたしの神よ」、と叫ばざるを得なくなった、これが事実ではないでしょうか。神の言葉である十字架のイエスキリストが罪人の前に現れた時、彼は必ず救われる、その証人の一人に私たちがいるのです。

 主イエスは、最後に言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである」、と。私たちは、むしろ見ないのに信じるようにされてしまった、そういうさらに幸いな者たちではないでしょうか。

後にペテロが、この幸いを大変麗しい調子で謳っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。(Ⅰペトロ1:8)」。これが、この喜びが「天国行きの列車」の中に溢れていたら、プラットホームにたたずむ人たちの戸惑いは少しずつでも解消されていくのではないでしょうか。

大切なのは、私たちの身なりでも経歴でもなくて、私たちの喜びなのです。