2026年02月15日「主にある平和」

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聖句のアイコン聖書の言葉

19節 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20節 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21節 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22節 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23節 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
ヨハネによる福音書 20章19節~23節

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説教の要約

「主にある平和」ヨハネ福音書20章19〜23節

また、この週からヨハネ福音書講解に戻ります。前回の続きであります本日の御言葉は、復活の主イエスが弟子たちに現れた場面が描かれていまして、短い箇所でありますが、極めて大切な箇所です。

それで、今週と来週の2回に分けて、より丁寧にこの箇所から共に教えられたいと願っています。

 まずここで、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。(19節)」、と弟子たちの姿が描かれていますが、この弟子たちの姿は、前回の御言葉の結末と全く調和していません。前の節では、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた(18節)」、と主イエスの復活を目撃したマリアの姿が生き生きと記録されて終わっていましたが、それ対する弟子たちの姿が、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた、」と記されているからです。ユダはもう脱落していましたが、実際、イエスの空の墓を目撃したペトロや、もう一人の弟子と呼ばれる匿名の弟子を含めた他の弟子たちはこの中にいました。次の段落では、12弟子の一人のトマスが不在であったことが記録されていますので、10名、あるいは、そのほかにもイエスの弟子が数名この中にいたのかもしれません。いずれにしても、ここにいたのは、イエスの側近中の側近であり、やがて最初期の教会の指導者になる錚々たる面々でした。彼らは、キリスト教会を創立するために用いられた使徒たちです。ところが、この臆病な姿が彼らの現実でした。

しかし、「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(19節))」、と御言葉は続けるのです。弟子たちの姿となんとかけ離れた出来事でありましょう。

 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。しかし、その只中で、主イエスは、「あなたがたに平和があるように」、と宣言されて憚らない。

 ここで大切なのは、主イエスの平和というのは、弟子たちの状態とは無関係に宣言される、ということです。彼らは戸締りまでして、震えていたのです。「今度は俺たちの番だ、とどうやってこの状況を乗り切ることができるのか」、それが彼らの最大の関心ごとであったはずです。つまり最悪の状態でした。しかし、その最悪の状態にあって、「あなたがたに平和があるように」、と主イエスは平和を宣言されたわけです。

ところが、この臆病な弟子たちは、目の前に主が立たれても俄には信じられなかったようです。

それで、主イエスは、確かにご自身が十字架で殺されたナザレのイエスである、という証拠を出されます。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(20節)」、この通りです。「手とわき腹とをお見せになった」、これは言うまでもなく十字架刑の傷跡です。つまり、復活の身体は、地上を歩んだ身体の延長上に与えられると言うことです。

 例えば、私たちが地上を去って、終末のキリストの日によみがえった時に、先に天に召された愛する者たちの懐かしい顔は、決して見間違えることがない、そういうことです。復活の身体は霊的であると同時に肉体的でもある、これが聖書の約束であり、私たち信仰者の立場だからです。

神の国は、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない(ヨハネ黙示録21:4)」、と約束された栄光の場所ですから、それこそ、この世的な物差しで想像することは的外れでありますが、愛する人との再会を期待することは決して間違いではないのです。これは地上に残された私たちの大きな慰めではないでしょうか。天国というのは、決して論理で隅っこに片付けられる思想のようなものではなくて、御言葉によって常に目の前に示されている希望に満ち溢れた現実なのです。

 さらにこの御言葉から思い巡らしたいのは、「弟子たちは、主を見て喜んだ」、と非常にシンプルに弟子たちの反応をまとめているところなのです。冷静に考えてこれは不思議です。弟子たちは、イエスを見捨てて逃げたからです。彼らは全員イエスを裏切ったのです。ですから、逆にイエスが復活して彼らの前に現れたら、あわせる顔がないどころのお話ではありません。

しかし、イエスはまさにその只中に立って、「あなたがたに平和があるように」、と宣言して下さった。つまり、これは弟子たちにとっては、完全なる罪の赦しの宣言となっているのです。彼らの恥も、弱さも、裏切りも、全て一瞬で帳消しにされた、それが、「弟子たちは、主を見て喜んだ」、この御言葉に凝縮されているわけです。

 さて、この罪の赦しの宣言の後で改めて主イエスは、「あなたがたに平和があるように(21節)」、と言われます。新約聖書は、執筆された当時の地中海世界の共通語であったギリシア語で記録されていますが、実際、主イエスと弟子たちはアラム語で会話されていました。ですから、ここで「あなたがたに平和があるように」、と主イエスが言われた「平和があるように」、と言う言葉は、「シャローム」と発音されるヘブライ語であったと思われます。ヘブライ語でシャロームとは、神との関係においての平和を意味する大切な言葉です。神が共におられる、これがそのままシャロームである、と申し上げてよろしいでしょう。また、ここでは「あなたがたに平和があるように」、とやや曖昧な表現になっていますが、ここは、直訳しますと「あなたがたに平和」でありまして、弟子たちの中にいま現実的に平和がある、その事実がはっきりと宣言されています。

 前述の通り、今、弟子たちは、最悪の状況でした。彼らは、ユダヤ人を恐れて、厳重に戸締りまでして、震えていたのです。その中で平和が宣言された、これがイエスキリストの平和なのです。彼らの状況がどうであろうが、そこに生ける真の神、復活の主が立たれた以上、そこにあるのはシャロームであるからです。

 しかし、この平和宣言は、それでおしまいではないのです。「あなたがたに平和」と言われた直後、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」、とこのように主イエスが続けられるからです。

 弟子たちは、扉を閉めて、鍵を掛けてじっとしていました。どうしてでしょうか。それはユダヤ人を恐れていて、扉を開けた瞬間にそのユダヤ人たちに見つかり殺されてしまうリスクが高くなるからです。この時の彼らの平和は、小さな空間の中で怯えている状況を維持することで精一杯であったわけです。しかし、イエスキリストの平和はその扉を開くのです。恐怖に怯えたリスク回避は、キリストの平和とは無関係なのです。キリストの平和は、それが与えられて「めでたし、めでたし」、とじっとしている平和ではないのです。むしろ、「あなたがたに平和」、と宣言されてすぐにこの世に遣わされる平和なのです。キリスト者である私たちだけでなく、この世の全ての人々と分かち合う性質が、この平和にはあるのです。それは、「わたしもあなたがたを遣わす」、と言われた主イエスご自身が、私たちが遣わされたその先々で共にいらっしゃるからです。

 教会は鍵がかかった安全地帯ではありません。要塞でもシェルターでもありません。むしろ、その場合そこにあるのは平和ではなく、恐怖です。教会に主イエスが立たれている以上、必ず、その扉が開かれて、「あなたがたに平和」、と主イエスに与えられた私たちの平和は、この世へと響くはずです。主イエスの平和は、私たちが創り出すものではなくて、主イエスのもとにだけあって、主イエスから御言葉を通して与えられる平和だからです。

そうである以上、この平和には、私たちの想像をはるかに超えた力があるはずです。

 今、扉を開いて、この世の只中で平和のために勤しみたいと願います。