2026年01月11日「イエスの埋葬」
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イエスの埋葬
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 19章38節~42節
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聖書の言葉
38節 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
39節 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
40節 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。41節 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
42節その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。ヨハネによる福音書 19章38節~42節
メッセージ
説教の要約
「イエスの埋葬」ヨハネ福音書19:38〜42
今、私たちは、主イエスの十字架の場面を続けて読み進めています。特に先週は、イエスキリストが十字架上で死なれた場面が描かれていました。本日の御言葉では、十字架上で死なれたその主イエスの死が確かであったことをさらに裏付けるように、主イエスの埋葬が記録されています。
この主イエスの埋葬の場面に二人の人物が登場します。それは、「アリマタヤ出身のヨセフ」と「ニコデモ」でありました。この両名は、当時のユダヤの国会にあたるサンへドリン呼ばれる最高法院のメンバーでありました。最高法院の議員が二人も、十字架の死刑囚のもとでその死を悼んだ、これは当時のユダヤ社会におきましては、異例中の異例です。
彼らは、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」、という立場で共通していました。しかし、主イエスの十字架は、その隠れキリシタン的な臆病な心をも打ち砕く力があったのです。
ニコデモは、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」、と紹介されています。
その「ある夜」に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3:16)」、この偉大な神の愛をイエスの口から聞いたのはこのニコデモでした。彼は、その時は、イエスが言われていることが全くわかりませんでした。しかし、ニコデモは、当然、この夜の主イエスの言葉を忘れることはありませんでした。ですから、ニコデモは、十字架の主イエスを仰いで、あの夜の答え合わせをしていたはずなのです。
どうして主イエスは十字架で死なれたのか、それは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からである、さらに、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、この偉大な真理が、ニコデモの心を貫き、ものの見事に打ち砕いたのでしょう。
ここで、見逃してはならない大切なことは、前述の通り、この両者が最高法院の71名の一員であった、という決定的な事実です。つまり、彼らは、この時、これ以上ない証人でもあった、ということです。イエスが確かに死んで葬られた、その証言者として、彼ら以上に相応しい者たちはいなかったのです。彼らもまた、神のご計画に従って、最も相応しい時に、召し出されたのでありましょう。
さて、具体的なイエスの埋葬の記録が、「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。(40節)」、と記されます。
ここで、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」、とあります。この時代の「ユダヤ人の埋葬」とは、遺体を亜麻布で包んで、人の背丈ほどの高さがある横穴式の墓室に安置する方法でした。香料は、その遺体の脇において死臭を防ぐために使いました。
人が死ぬと、死後硬直という現象が起こります。死後2時間にもなるともうそれが始まっていますので、彼らがイエスの遺体を亜麻布で包んでいる時は、もう体が硬くなっていて、確実に死んでいる状態でありました。その上で、イエスが葬られた墓が、「だれもまだ葬られたことのない新しい墓(41節)」であったことが示されています。これはイエスの復活の大切な伏線になっています。イエスの復活の証拠は空の墓であったからです。「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」であったので、イエスが復活された後に、そこが空の墓になった、ということだからです。この空の墓については次週さらに詳しく学びます。
最後に、この主イエスの埋葬について大切なことを二つ確認して終わります。
まず一つ目、繰り返すようですが、主イエスは確かに死んだ、ということです。
複数の人間が亜麻布を遺体に巻くという作業がなされたわけですから、その遺体には死後硬直が起こり、誰の目で見ても自然な状態で死んでいた、ということです。
牧師をしていますと葬儀の務めが必ず与えられます。キリスト者と言えども、やはり、人が死ぬのは悲しいものです。今まで生きておられた方が死んで目の前に横たわっています時、死という厳然とした事実にあらためて胸が締め付けられます。しかし、遺族は尚更です。肉親や親しい友人の死と向き合うことほど辛いことはありません。しかし、聖書は、「この墓が近かったので、そこにイエスを納めた(42節)」、と極めて事務的に淡々と死を記録するのです。
大切なのは、次週の段落になりますが、その直後、「週の初めの日(43節)」、と御言葉が続くことなのです。この「週の初めの日」、というのは、今で言います主の日、日曜日に当たります。
「そこにイエスを納めた」、それは、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って粛々と行われた、それは、その次に主の日が始まるからなのです。ここに私たちの希望がございます。
主の日というのは、復活の主に見える日であります。私たちは、復活の主に見えるためにここに集うのです。そして、私たちの大切な家族や友人もキリスト者である以上、死の次の「行」にあるのは、「週の初めの日」以外ではないのです。
私たちは、今日、主の日に復活の主イエスを礼拝しています。これは、天上でも同じようにささげられていて、天に召された民と地に残された私たちとが、同じ主イエスを礼拝している、この計り知れないスケールの神礼拝が、今、天と地を貫いて、実現しているのです。
「埋葬の習慣」は、その国、その時代で違います。現代は、葬儀の場所から火葬場まで分刻みで時間が決められていまして、よくも悪くも事務的な順序で慌ただしく埋葬の手続きがなされていきます。しかし、どのような埋葬の習慣であろうが、どのように事務的であろうが、キリスト者である以上、死の次にある世界は、「週の初めの日」であり、復活の主の御前であるのです。
葬儀の時に、あるいはイースター礼拝で繰り返し申し上げてきたことですが、改めて確認いたします。人が死んだときに、その死を疑う人はいません。確かにその肉体は死んでいるからです。しかし、確かに死んでいるその目の前に横たわる信仰者の遺体を前に尚、永遠の命に生きていることを疑い得ないのがキリスト教信仰なのです。キリスト教信仰こそは私たちの力であり、慰めであり、希望であります。
二つ目、イエスが埋葬された、という事実です。
私たちが、毎週礼拝で信仰告白します使徒信条でも、「死にて葬られ」、というくだりがあります。
イエスは死んだだけでなく埋葬されたのです。そうである以上、墓は恐ろしい場所ではなくなった、ということです。イエスは人となって地上を歩まれただけでなく、死んでくださって墓に葬られたからです。神の御子は私たちが恐れる全てのことを経験され、それを克服して下さったのです。ですから、墓であっても、そこに主イエスはおられるのです。
これは大きな慰めです。私たちは大切な家族や友人、教会の兄弟姉妹が墓に葬られているのを知っています。主イエスと無関係に考えるのなら、冷たくて寂しい場所で彼らの体が朽ちていくことに耐えられないでしょう。しかし、彼らは一人ではないのです。その魂が天上で主イエスを礼拝しているだけでなく、墓にあるその体も主イエスと共にあって、復活の日まで休む、それが聖書の約束なのです。
この説教の後、讃美歌514番で主なる神様を賛美します。この讃美歌にはリフレインがありまして、このように繰り返して歌います。
「主によりてあがなわる、わが身の幸はみな主にあり」
「わが身の幸はみな主にあり」、私たちは、揺るぎないこの信仰に立ちたいと願います。