2025年12月28日「十字架の下で」

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聖句のアイコン聖書の言葉

23節 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった
24節 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
25節 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
26節 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
27節 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
ヨハネによる福音書 19章23節~27節

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説教の要約

「十字架の下で」ヨハネ福音書19:23〜27

今年最後の主日礼拝です。この一年間、私たちの教会が主なる神様からいただいた恵と祝福を数えつつ、本日から、またヨハネ福音書の連続講解説教に戻ってまいります。

本日の御言葉は、十字架に付けられた主イエスの下で起こっていた出来事が記録されていています。十字架の主イエスの下には、全く違う行動をとっていた2つの立場の人たちがいました。

一方は主イエスの衣を貪る兵士たち、他方は十字架の主を仰ぐ婦人たちでした。

当時衣料は貴重な財産であったので、兵士たちは、イエスの衣を剥ぎ取り、その衣で賭け事まで始める始末でした。しかし、この兵士たちの姿を解説して、「聖書の言葉が実現するためであった(24節)」、と聖書は語ります。もちろん、この兵士たちは、自分たちの行動で旧約の預言が実現しているなんて夢にも思いませんでした。 彼らは、最も自分たちの都合のいいように、イエスの衣にありつき貪っていただけの話なのです。しかし、そのあさましい行為まで用いられて神の御計画は実現していくのです。それが、この御言葉から響いている大切な聖書のメッセージです。

 今、この世におきまして、大国、あるいは強い国が、弱くて貧しい国を不当に支配する状況が当たり前のようになりつつあります。この一年だけでも、そのためにどれだけ多くの命が奪われたでしょうか。しかし、私たちは、それさえも、主なる神様の救いのご計画と無関係には起こっていないということを、この聖書の言葉から確信し、忍耐して祈り続けることができるのです。十字架の下で最悪のことが行われていたのにも関わらず、そこに神の御業が実現していたからです。ですから、私たちが、この御言葉に立つ以上、最悪の状況にあって、なお希望が失われることはあり得ないのです。

 さて、この兵士たちとは、全く違う視点でイエスを仰いでいた人たちの姿が、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。(25節)」、と記されていて、ヨハネ福音書は、この十字架の下の光景を他のどの福音書よりも詳しく描いています。

特に、イエスの母であったマリアが、十字架の下にいたことを記録しているのは、このヨハネ福音書だけで、これは非常に貴重な記録です。

その母親に主イエスは言葉をかけます。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(26、27節)」

ここで、また「愛する弟子」、という匿名の弟子が登場します。この弟子が一体誰であるのか、その結論は出ていませんし、これからもそうでしょう。ですから、好奇心に駆られてそれを追求するのは、全く無意味でありましょう。それよりも、ここでは、肉親という関係を超えた新しい家族関係の形成が、イエスキリストによって宣言されていることが重要です。

イエスの母マリアと、この「愛する弟子」に血のつながりはありません。しかし、イエスは、母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、愛する弟子に「見なさい。あなたの母です。」と言われたのです。この両者にあるのは血のつながりではなくて、十字架の主イエスを仰ぐその立場です。

この立場が、主イエスの復活の後に信仰となってこの二人を結びつけていくわけです。

血のつながりではなくて、信仰によって結びつけられる家族、これはまさにキリストの教会です。今、十字架の上で、主イエスは教会の誕生を宣言されたのです。主イエスは十字架の上で死に、教会は十字架の下で生まれるのです。

今、この御言葉を与えられる私たちにとって、このイエスキリストの十字架の下で描かれていた有様は、この世の、しかも主イエスの再臨が近い終わりの時の縮図と言えないでしょうか。

この世の支配者たちは、人の命など顧みずに自らの利益に夢中になっていて、その中には、クリスチャンを自称する者たちもたくさんいます。彼らは信仰を政治利用してやりたい放題なのです。

これは、まるでイエスの衣を剥ぎ取って自らの財産にするあさましい兵士たちの姿です。

弱い民族の生活と命に興味を示さないクリスチャンとは一体どんな人種なのか、現在はそれが極めてよくわかる時代です。今のパレスチナの状況は、終わりの時代を映し出す鏡です。

 しかし、そのすぐ隣に十字架のイエスを仰ぐ真の信仰者たちもいるのです。その多くは、主イエスの側近とはとても言えない、主イエスを陰で支えてきた女性ばかりでした。唯一その中に「愛する弟子」、という匿名の弟子が混ざっていただけでした。なんと貧弱でバランスの悪い構成員でありましょう。しかし、そこに主イエスは教会の姿を宣言されたのです。そうである以上、教会というのは、構成員が問題ではないのです。それ以上に必要なのは、複数の信仰者がそこに集うことなのです。

 地上を歩まれた時、主イエスはこの教会の本質を「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)」、と明確にされました。ですから、主イエスが、肉親を超えた信仰の絆を宣言する時、そこに教会は生まれるのです。

つまり、教会によって大切なのは、私たちが何者であるかではなくて、あるいは人数が多いか少ないかでもなくて、主イエスがそこにおられるのか、おられないのか、このことだけです。十字架の主イエスがそこにおられて、私たちが十字架の主イエスを仰ぐ以上、私たちの立場や身分、性別、あるいは人種さえ全く問題ではないのです。

 やがて、これはパウロがガラテヤの信徒たちに明らかにした教会の構成員の土台ともなりました。

 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤ書3:26〜28)」、この通りです。

 イエスの衣を貪る兵士たちは、信仰者のすぐ隣にいるのです。しかし、その状況にあってなお信仰者は主イエスにあって一つに結びつけられて、教会という信徒の交わりの中で十字架の主を仰ぐのです。それゆえに言うまでもなく、私たちのこの教会の交わりは、常に十字架の主の真下で実現していて、私たちの教会でのすべての営みが十字架の下で行われているのです。

 しかし、教会の歴史の中で、キリストの教会がどれだけ多くの罪を犯してきたか、この事実から私たちは目を逸らしてはならないのです。戦時中、日本の教会は天皇を拝み、偶像崇拝の罪を公然と犯してきました。これも十字架の下で行ったのです。主イエスの衣を貪るのは、この世の支配者たちだけではありません。教会の指導者であるはずの牧師も自らの命や立場を守るために、それをやってきたのです。聖書の言葉を捻じ曲げて偶像崇拝を奨励する、これが主イエスの衣の貪りでなくて一体何でしょうか。私たちの日本キリスト改革派教会は、これらの罪を悔い改めて戦後新たに歩み始めた教派です。しかし、来年で80周年を迎えるその歩みが不完全であったことは言うまでもありません。私たちは、十字架の下で十字架の主を仰ぎながら、それでも罪を犯さなくてはいられない貧しい群れなのです。どうして私たちは兄弟姉妹を憎んでしまうのでしょうか。どうして教会に諍いが起こるのでしょうか。十字架の真下で。

 今日、この年の最後の礼拝をおささげしながら、そしてここからつかわされて、悔い改めようではありませんか。この年、いかに多くの恵を主なる神様から頂いたのか、それを数えながら、それでも尚、いかに多くの罪を犯し、そして許されてきたか、それを思い巡らしたいのです。十字架の下で。