2025年12月07日「罪状書〜十字架とアドベントⅡ〜」

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罪状書〜十字架とアドベントⅡ〜

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章16節~22節

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聖句のアイコン聖書の言葉

16節 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。
17節 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
18節 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
19節 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
20節 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
21節 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
22節 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
ヨハネによる福音書 19章16節~22節

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説教の要約

「罪状書〜十字架とアドベントⅡ〜」ヨハネ19:16〜22

今年のアドベントは、ヨハネ福音書連続講解の順番通り、二週にわたって主イエスの十字架の場面を描く御言葉が与えられました。先週確認しましたように、主イエスの十字架の記録は、主イエスの誕生の場面に私たちをフラッシュバックさせるほどに、密接に繋がっているからです。

本日の「説教の要約」では、この主イエスの十字架の場面を描く御言葉が、今再臨の主を待ち望む私たちに伝えている大切なメッセージを二つ確認したいと思います。

一つは、十字架の上に掲げられた罪状書の「ユダヤ人の王」、これが地上の生涯を終える主イエスの肩書きであった、ということです。

「ユダヤ人」、というのは、そのまま神の民を意味します。ですから、「ユダヤ人の王」、それは神の民の王であります。しかし、あろうことか、その神の民が主イエスを十字架に付けたのです。その結果、神の民に救いがもたらされたのです。この関係が極めて重要です。これはそのまま主イエスと私たちとの関係だからです。私たちの罪を贖うために、主イエスは十字架で死んで下さったのです。つまり、「ユダヤ人の王」、と罪状書に記されたイエスを十字架につけた張本人はこの私なのです。しかし、それによって私たちが救われたわけです。

主イエスの十字架で救われるのは、全人類ではなくて、あくまでも神の民だけです。つまり、罪状書の「ユダヤ人の王」、これは私たち神の民の罪を贖う王であるわけです。主イエスは、本来十字架で裁きを受けなければならなかった私たちの身代わりとなって下さった王なのです。

私たちの罪状書には、一体どれほど多くの罪科が記録されているでしょうか。しかし、それが全て帳消しにされたのです。これは使徒パウロが証言しています。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。(ローマ5:15〜16)」、この通りです。「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」、それは「ユダヤ人の王」、と罪状書に記されたイエスの十字架が保証しているのです。

この「罪状書き」、という言葉は、ギリシア語で 「ティトロス(τίτλος)」という字を描きます。もともとは、ラテン語からの借用ですが、この字が英語のtitleの語源になりました。そして、この「罪状書き」、を意味する英語のtitleには、「肩書き」とか「称号」、あるいは「権利」や「資格」、「学位」や「博士号」、等々幅広い意味があります。本来主イエスのtitleは、永遠の神の御子であり、この主イエスのtitleには、神の国のあらゆる資格が詰め込まれていました。しかし、主イエスがそのtitleを「ユダヤ人の王」、として十字架について下さった時、私たちは主イエスの本来のtitleである神の国のあらゆる資格、そして神の子という身分までいただいたのです。つまり、十字架によって、私たちのtitleと主イエスのtitleが見事に逆転したのです。主イエスキリストが、私たちの罪禍を引き受けてくださり、私たちは、主イエスの神の御子のtitleをそのままいただいたのです。

実に、今私たちが、このアドベントの期間、平安を持って再臨の主を待ち望むことが許されるのは、私たちに神の御子イエスキリストの本来のtitleが与えられたからなのです。

 二つ目は、イエスキリストが十字架に付けられる場面を記録した「そこで、彼らはイエスを十字架につけた(18節)」、この御言葉です。

他の福音書もそうなのですが、このヨハネ福音書でイエスが十字架に付けられる決定的な瞬間の描写は極めて簡潔です。余計な言葉を一切挟まずに、「彼らはイエスを十字架につけた」、とだけ綴ります。しかも、この部分は、もともとのギリシア語聖書では、たった二つの字しか使われていません。ですから余計に、主イエスの十字架についての代弁者は一切不要であるかのように響きます。「彼らはイエスを十字架につけた」、この御言葉は、私たちの戯言を許しません。この御言葉から私たちに求められていることは、ただ一つ悔い改めることだけなのです。そして、「彼らはイエスを十字架につけた」、この御言葉の前に沈黙し、思い巡らすことです。その上で、改めて、イエスキリストにとって十字架とは、一体何であったのか、と今日はっきり確認したいのです。

それは、イエスにとって最も不可能なことが、この時に起こった、ということではないでしょうか。

この福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)」、と謳って始まります。これこそが栄光の神の御子イエスキリストを最も簡潔に表現した言葉です。しかし、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、この御言葉と最も調和しないのが、「彼らはイエスを十字架につけた」、この記事ではないでしょうか。主イエスは復活であり命です(11:25)。主イエスは世の光です(8:12)。主イエスは道であり真理であり命です(14:6)。この永遠の命であるその方が、十字架で死んでいかれる、これ以上の矛盾はないのです。

 聖書の中の最大の奇跡は何でしょうか、と問われて、多くの方が復活である、と考えます。ですから、イエスキリストの復活が信じられない方は実に多くおられて、復活さえ信じることができればキリスト教に入信できる、という声も聞いたことがあります。それとは対照的に、イエスキリストが十字架で殺されたことは、多くの方がいとも簡単に信じます。実は、これが大間違いなのです。逆なのです。むしろイエスキリストの復活は、神にとって死よりも容易いことなのです。罪人の物差しと神の物差しは全く違います。罪人は、誰でも死ぬけれども、復活した者はいない、という尺度でイエスキリストの復活を否定します。しかし、無から天地万物を創造された全知全能の神にとって、復活はその延長上にある新しい命の創造なのです。ところが、死は全く別です。永遠の命そのお方であるイエスキリストが十字架で殺された、神にとってこれ以上に不可能なことはありませんでした。

神は嘘をつくことができませんし、罪を犯すこともできません。神が死ぬことはもっとできないはずなのです。しかし、「彼らはイエスを十字架につけた」、この時、その不可能が可能になったのです。

前述の通り、主イエスの十字架の記録は、主イエスの誕生の場面に私たちをフラッシュバックさせるほど密接に繋がっています。ナザレのおとめマリアは、救い主の誕生を天使に告知された時、「どうしてそのようなことがありえましょうか(ルカ1:34)」、と問いかけました。本日私たちをこの礼拝に招いた招きの詞です。それに対して天使は「神に出来ないことは何一つない(ルカ1:37)」、と宣言しました。一般的に、これは処女降誕の奇跡の予告とされますが、ここで目を向けなければならない、それ以上の奇跡は、神が人となる、というイエスキリストの受肉の方です。それに比べれば、処女降誕など問題ではありません。受胎告知で最も驚くべきは、永遠の神の御子が、弱い人間の体で乳飲み子として生まれて下さった、この神の謙りなのです。しかし、それはあくまでも十字架の伏線に過ぎません。「彼らはイエスを十字架につけた」、この聖書中最大の奇跡が、アドベントに貧しい乙女の胎内で動き出したのです。

 今、再臨の主を待ち望むアドベントの民として私たちに何よりも大切なのは、「神に出来ないことは何一つない」、この信仰です。今がどのような状況であろうが、「彼らはイエスを十字架につけた」、この聖書中最大の奇跡が御言葉によって私たちに与えられている以上、恐れることはありません。不可能が可能になるからです。アドベントの暗闇にあって、私たちの貧しい群れの中で、再臨の主の胎動が聞こえます。