2025年11月23日「権限とは何か」

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「権限とは何か」ヨハネ福音書19:6〜12
先週の御言葉で確認しましたように、ピラトが、「見よ、この男だ」、と言って、ユダヤ人の前に引き出されたイエスは、深傷を負い、顔が腫れ上がり、偽物の王冠、偽物の王服をまとい、王の風格の一つさえありませんでした。しかし、そのイエスを見るなり「祭司長たちや下役たちは、十字架につけろ。十字架につけろ(6節)」、と叫んだわけです。それでも、ピラトは、「わたしはこの男に罪を見いだせない」、と繰り返します。先週も確認しましたように、これは裁判官として決定的なジャッジで、しかも、この言葉が彼の口から発せられたのは、これで三度目なのです。三度というのも聖書的にはそれが確かである、という最終的な意味を持ちます。ポンテオピラトは、ナザレのイエスの無罪を三度宣告したのです。さらに注目すべきは、この無罪宣告の前に、ピラトが、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい」、と言っているところです。実は、これはローマ法における無罪放免を意味しています。ローマの法律に照らしてナザレのイエスには何一つ罪科が認められなかった、だから、私はこの男を釈放するから、あとは好き勝手にしてくれ、そういう宣言です。しかも、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい」、ここには、ピラトの嫌味も含まれています。ユダヤ人が十字架刑を執行することが出来ないのを百も承知でピラトは、「あなたたちが十字架につけるがよい」、と言っているからです。つまり、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい」、これは、ピラトにしてみれば、「これにて一件落着」、の宣言であり、ユダヤ人にとってもそのように響いたはずで、少なくとも、この一瞬に関しては、ピラトに軍配が上がっています。
ところがユダヤ人たちは「わたしたちには律法があります(7節)」、と自分たちの論理を持ち出して食い下がります。ユダヤ人たちは、反ローマ帝国の首謀者にイエスをでっち上げて、ローマ帝国の法律の下でナザレのイエスを葬る訴訟を起こしていましたが、それが棄却されると、今度はローマの法律ではなくて、「わたしたちには律法があります」、と議論をすり変えるわけです。
 それで、ピラトは再びイエスへの尋問を始めますが、答えないイエスに向かい、「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。(10節)」、と脅迫します。ここで、ピラトはすでに法の番人としての務めを放棄しています。彼の法廷におきましては、もはや法の下の平等は担保されず、裁判長であるポンテオピラトの一存で判決が下されることが示唆されたからです。それに対してイエスは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」、と回答されました。ローマ帝国は、聖書の神を信じていたわけではありませんが、決して神がいなかったわけでもありません。現代と違って、この古代という時代において、無神論はあり得ない愚かな思想であったのです。ローマにもちゃんと神がいて、古代ローマにおきましては、法律は正義の基準であり、神の意志そのものであるとさえ信じられていました。
ですから、ピラトが、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」、と言った時、彼は法律の上に立った、つまり神の権限を行使しようとしたわけなのです。そのピラトにしてみれば、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」、というイエスの言葉は非常に厳しい指摘に聞こえたはずです。ピラトとしてみれば面目丸潰れどころの話ではありません。ここでは、ピラトとイエスの立場が逆転しているわけです。
 ですからピラトは、さらにイエスの無罪を確信したはずで、彼はなんとしてもイエスを釈放しなければならなくなったわけです。そのピラトの様子が「 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた(12節)」と記されていますが、ここでも、もはや司法権の担い手として彼は機能していません。法に照らし合わせて無罪である以上、もはや奮闘する必要などさらさらないからです。ただ無罪の判決を下せばよかったわけです。「ピラトはイエスを釈放しようと努めた」、言うまでもなく、これは、「釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにある」、という先ほどの立場となんら変わっていません。表現が変わっただけの話です。もはやここは法廷ではなくて、場外乱闘もいいところです。
 ですから、ユダヤ人たちは、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」、とその矛先をピラトに向けます。しかも、ここでは、またイエスの罪状を、棄却されたはずのユダヤ人の王にすり替えています。これ以降、ピラトはユダヤ人の言いなりになって行きます。ピラトは、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」、と権限を濫用しようとしたところからすでに法の番人としての務めを放棄していました。彼は法律の上に立って、神の権限を行使しようとしたわけです。
この権限については、この少し後の最初期の教会の時代にあって、ローマ帝国の支配が続いている文脈でパウロがわかりやすく定義しています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(ローマ書13:1)」、パウロは、ローマ帝国全盛期という時代の現実の中で、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」、と言って憚らないのです。冷静に考えて、これはとても大変なことだと思うのです。そして、これは現代まで変わることがないこの世の権威に対する信仰者の立場であり、国家と教会との関係なのです。聖書の神が、全世界を支配し、この神の権威のもとで政治が行われている。過去私たちの国の教会が、この御言葉から一歩、そして二歩、と後退したときに、戦争に抗えないどころか、戦争に加担するという大きな罪を犯してしまったわけです。軍国主義の国家の脅威に、日本の教会は真の主権者である神ではなくて、その道具にすぎないこの世の支配者に歩み寄ったのです。これはピラトの姿です。ピラトは、皇帝の友でいたかったのです。過去の日本の教会もそうです。皇帝の友でいたかったのです。戦時中に教会は、神の言葉である聖書を曲解してでも痛い目に会いたくなかった。「あなたは皇帝の友ではない」、と言われるのが恐ろしかった。それが過去私たちの国の教会が犯した過ちです。
しかし、十字架に向かう直前、イエスは弟子たちをご自分の友と言われました。「〜わたしはあなたがたを友と呼ぶ。〜あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(15:15〜16)」、この通り、主イエスは、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」、と約束してくださいました。しかも、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」、と主イエスは明確に言われています。しかもこの弟子たちは、十字架の主イエスを見捨てて逃げ出してしまう者たちです。彼らもまた、この世の権力に怯えた皇帝の友です。しかし、それでも尚イエスは彼らを友と呼んでくださったのです。私たちがイエスの友でいられるのは、イエスが私たちを友にしてくださったから以外ではないのです。
 本日は、子ども祝福式を執り行いました。「子どもたちを私のところに来させなさい」、という主イエスの言葉から、「子どもたちの役割は、イエスの許に来ること、教会に集まることなのです」、と申し上げました。私たちも全く同じではないでしょうか。主イエスは、私たちが役に立つから、招いてくださったのではないのです。何の取り柄もなく弱く貧しい者であったから憐れみを受けたのです。だから私たちの役割もイエスの許に集まることなのです。そして、実に子どもたち、そしてこの弱い私たちにイエスの権限が与えられている。この世の権力や権威とは、正反対の十字架の権限が与えられている、主イエスの許に集められて主なる神を礼拝しているとき、それが実現しているのです。
 権限とは何か、それは十字架の主イエスであり、この主イエスにあって神を礼拝する私たちのこの世に対する権利の範囲なのです。次週からアドベントに入ります、私たちはこの十字架の権限に立ってこの世に悔い改めの福音を宣教し、再臨の主イエスに備えて行きたいと願います。
ヨハネによる福音書 19章6節~12節

原稿のアイコンメッセージ

6節 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」

7節 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

8節 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、

9節 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。

10節 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」

11節 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

12節 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」