2025年11月16日「この人を見よ」
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この人を見よ
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- 説教
- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 18章38節b~19章5節
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聖書の言葉
18章38節b ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
39節 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
40節 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
19章1節 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
2節 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
3節 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
4節 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
5節 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。ヨハネによる福音書 18章38節b~19章5節
メッセージ
説教の要約
「この人を見よ」ヨハネ福音書18:38b〜19:5
先週までの御言葉で確認してきましたように、ポンテオピラトは、イエスが無罪であることも、そしてユダヤ当局がイエスを妬んで虚偽告訴をしてきたことも理解していました。それで、強盗のバラバを引き合いに出して角が立たないようにイエスを釈放しようとしましたが(18:38b〜40)、それが裏目に出てしまい、イエスに鞭打ちの制裁を加えます(19:1)。
この鞭打ちというのは39回の鞭打ちの刑で、その鞭は、たとえてみれば有刺鉄線のような棘のついたものでした。ですから、これは大変むごたらしい拷問であり、意識を失う者さえ多くいました。
しかもこの拷問で弱りきったイエスに対するローマ兵の行為が、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った(2節)」、と記録されています。この「言って」、という表現と、「平手で打った」、という表現は、もともとのギリシア語の文法では、過去の継続した動作を示す動詞の変化形が使われています。ですから、ここは、「「ユダヤ人の王、万歳」と言い続けて、平手で打ち続けた」、と訳した方が、もともとの本文のニュアンスには近いと思います。つまり、鞭打ちで深傷を負った主イエスに尚、リンチのような執拗な嫌がらせが続いていたわけです。
しかし、ピラトにしてみれば、これはイエスを釈放しようとする苦肉の策でした。ユダヤ人たちの立場を尊重して、反ローマ帝国のテロリストを釈放したなどということが本国にまで届いたら、自分の立場まで危なくなるからです。
それで、ピラトが「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう(4節)」、とユダヤ人たちの目の前に連れてきたのは、39回の鞭打ちの拷問を受け、背中に深傷を負った上に、兵士たちから何度も叩かれて顔面が腫れ上がったナザレのイエスでした。変わり果てたそのナザレのイエスをユダヤ人の前に引き出せば、彼らも納得するはずだ、これがピラトの推測でした。ですから、ピラトにとってイエスに対する拷問は、自ら招いた失態を帳消しにするためのポーズに過ぎなかったわけです。
さて、イエスがユダヤ人たちの前に登場します。「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。(5節)」、ここで主イエスのいでたちが、「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた」、と記録されています。即ち偽者である、というピラトの演出です。「茨の冠」は王冠のフェイクであり、「紫の服」も王の象徴で、これもフェイクです。
ナザレのイエスはユダヤ人の王として告訴されたが、それはとんだ茶番で、この通り、彼は偽者の王である、身体中傷だらけで、顔面も腫れ上がった男が、お前たちの王のはずはないではないはないか。これがピラトの言い分で、事実その通りであったはずです。顔が腫れ上がり、偽物の王冠、偽物の王服をまとい引き出された主イエスには王の風格の一つさえなかったのです。
その上で、「ピラトは、「見よ、この男だ」と言った」、と聖書は記しています。ピラトは、策略通りに、とても王とは言えない惨めな男を指差したわけです。
「見よ、この男だ」、これは、前回の「真理とは何か(18:38a)」、というあの言葉に勝るとも劣らない名言です。ピラトの口から立て続けに名文句が飛び出すわけです。それだけ、場面が緊迫していたと言えましょう。ここは、神の御子が十字架に付けられるか付けられないか、これを裁く法廷であったからです。実に、信仰の視点で言えば、人類の歴史の頂点が、今目の前にあるのです。
この「見よ、この男だ」、の「男」、という字は、もともと新約聖書が記されたギリシア語では、「アントローポス(ἄνθρωπος)」、という字を書きまして、直訳しますと「人」という意味です。この当時、人と言いますと男を指していましたので、そのような時代的背景を汲んでここでは「男」、と訳されているわけです。
これは、やがて教会史の中で、「この人を見よ」というフレーズで親しまれてきました。
この説教の前に私たちは讃美歌121番で主なる神様を賛美いたしました。この讃美歌の歌詞の中に、「この人を見よ」、という件が、5回も繰り返されていました。イエスの拷問、兵士たちの嘲り、このポンテオピラトが、自らの失態をカバーするために使った策略のその頂点にあった「この人を見よ」、という言葉が、計らずして、教会史の中で、信仰者の前にイエスを立たせる言葉となっていったのです。私たちが、常に見ていかなければならない主イエスは、「茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた」、この十字架の主なのです。「この人を見よ」それは、私たちの罪を全て背負い、身体中に深傷を負い、顔が腫れ上がった、私たちの救い主の姿であり、「この人を見よ」、これは、信仰者である私たちに常に叫ばれている御言葉です。
顔面が腫れ上がるくらいに叩かれた方がどれだけおられるでしょう。この主イエスに加えられた比較的軽度な暴力でさえ、経験された方は少ないと思います。しかも、これは十字架の序章に過ぎません。
自らの高慢に気がついた時、教会の兄弟姉妹を裁こうとしてしまう時、奉仕に疲れた時、「この人を見よ」、と御言葉は言うのです。教会内で諍いがあったり、信仰者が躓くのは、この人を見ないからです。教会トラブルと信仰のスランプの原因のほとんどは、この人を見ないであの人を見るところにあります。この人を見ずにあの人を見て裁く、あるいは、この人を見ないで自分を見て項垂れる、その時に教会トラブルは起こり、キリスト者は躓くのです。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、「イエス・キリストは私たちが自分の選びの確かさを見つめる鏡である」、と言いました。この人を見なければ、私たちは自分の救いの確かささえわからなくなっていくのです。
本日の午後に私たちは献堂式を行います。まだ暑さが残る時分から準備を続けてまいりましたその集大成です。会堂が新しくなり、これから再開発が進むこの高島平の街のキリスト教信仰のランドマークになるくらいの覚悟を持って、私どもは献堂式をおささげします。しかし、何よりも、「この人を見よ」、この言葉が私たちの魂に響いていることが大切です。
天井が高く賛美が響く礼拝室、初めて与えられた2階の会議室、早くも皆様の憩いの場所となっているキッチンとリビング、今までこの教会に備え付けられていなかった牧師館、その一つひとつを見る度に「この人を見よ」、そこに十字架の主がおられるのです。この新しい会堂の主は、十字架のイエスキリストです。
本当ならば私たちが鞭を受けなければならなかった。偽者として嘲られ、顔が腫れるまで叩かれ続けなければならなかった。その全てを主はこの私の代わりに引き受けて下さったのです。
私たちは、この新しい会堂を主イエスにおささげし、そして私たちのために苦しまれ、最後には、十字架で死んでくださった私たちの救い主イエス様のために、この生涯が終わるまで、全身全霊を持ってお仕えして行きたいと願うのです。