2025年11月08日「真理とは何か」
問い合わせ
真理とは何か
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 18章28節~38節a
Youtube動画
Youtubeで直接視聴する
聖書の言葉
28節 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
29節 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
30節 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
31節 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
32節 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
33節 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
34節 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
35節 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
36節 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
37節 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
38節a ピラトは言った。「真理とは何か。」
ヨハネによる福音書 18章28節~38節a
メッセージ
「真理とは何か」ヨハネ18:28〜38a
先週から主イエスがポンテオピラトの法廷に立たされる場面を描く御言葉に入り、この28節から始まる段落を、先週、今週の2回にわたって教えられています。
「お前がユダヤ人の王なのか」、というピラトの尋問に主イエスは、「わたしの国は、この世には属していない(36節)」、と回答されました。これは非常に大切な言葉です。この主イエスの宣言に、この世に対する神の国、あるいは教会と一人ひとりのキリスト者の立場があるからです。
もちろん、主イエスは私たちと同じ肉体をとって地上を歩まれました。ですから、「わたしの国は、この世には属していない」、というのは、浮世離れした夢物語ではないということです。
主イエスは、この地上に生まれ、そしてこの地上で食べて飲んで、弱いものを憐れみ、病をいやし、罪人を招き、人々に神の国を宣教して、最後に十字架で死んでくださった。浮世離れどころか、俗臭に満ちたこの世の現実の中で真の人として歩まれたのです。これがイエスキリストであり、そのキリストに従う私たちキリスト者の立場です。私たちキリスト者は、この世の只中で生活しながら主イエスの国に所属しているのです。この世の時間に束縛されながら、そこから解放され永遠の命に生かされ始めているのです。この地上に生を受けながら、神の国に新しく生み出されたのです。
続けて主イエスは、「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」、と言われます。これは、イエスをローマ帝国反逆の首謀者としたユダヤ当局の言いがかりが、全くの的外れであることを示すと同時に、主イエスが神の国の王であることも明確にしています。
それに対してピラトが、「それでは、やはり王なのか」、と尋問すると、主イエスは、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです(37節)」、と返答します。この部分は、この日本語訳の聖書ですと曖昧な感じがしますが、もともとのギリシア語聖書を直訳しますと、「他ならぬそのあなたが、私が王であると言っている」、となります。ピラト自身が、イエスが王である、と言っている、それがここでの主イエスの返答なのです。その上で主イエスは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」、と続けます。これは、真理に対するこの福音書の一つの結論と言えます。このヨハネ福音書で、聖書の中心とも言えます神の愛を謳った御言葉の直後にこの真理の法則が示されています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。〜(中略)〜悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(3:16〜21)」
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、というこの神の愛には大切な目的があるのです。それは、その独り子でありこの世の光である主イエスによって罪人が救われることなのです。そして、その状態が、「真理を行う者は光の方に来る」、この御言葉によって表現されているのです。罪人の救いというのは、決して自動的に行われるものではないのです。真理に来るのか来ないのか、この人間側の意志も大切なのです。私たちは決して神様のロボットではないのです。むしろ神と人との間には、真理が何であるかという古代から現代に至るまで、問われ続けてきた人類最大の問題があるのです。真理が何であるか、その解答に神への道が開かれて、真理というのは、人間の知識や経験、あるいは論理から導き出されるものではないのです。そうではなくて、真理その方であるイエスキリストを信じること、それこそが真理なのです。主イエスを信じない以上、真理の何であるかを理解することはできないのです。イエスが真理である、イエスだけが父なる神に通じる道なのです。以前学びました告別説教の最初に主イエスははっきり宣言しておられました。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(14:6)」、これが真理の法則であり、救いの法則です。
さて、ここでピラトは言います。「ピラトは言った。「真理とは何か」(38節a)」、これは、聖書中罪人が残した言葉で、これ以上ない名言ではないでしょうか。「真理とは何か。」それを探求しない人は、少ないのではないかと思います。ほとんど全ての人が、「真理とは何か。」を探し求めて生きているのではないでしょうか。今日は、子ども礼拝でもアンパンマンの歌をヒントにみんなで考えました。
「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ」、これを作詞したやなせたかしさんは、聖公会のクリスチャンで、アンパンマンのモデルは、イエスキリストであったようです。やなせさんは、戦争を経験し、空腹であることの苦痛をよく知っていました。本当の正義はミサイルを発射することではなくて、飢えている人に食べ物を与えることである、この強い思いがアンパンマンを作り出しました。しかし、「何のために生まれて、何をして生きるのか」、その回答を見つけられないまま、あきらめてこの世を去っていかれる方のいかに多いことか。実に、「ピラトは言った。「真理とは何か」、ここに人類の最大の課題がある、と申し上げてよろしいでしょう。
ところが、彼の目の前にその回答があったのです。ピラトは、真理を目の前に見て、「真理とは何か」、と問うたわけです。だからこそ、この罪人の言葉が響くのではないでしょうか。
罪人は、真理を見ても真理だとはわからないのです。それは、ピラトの見ていた真理とイエスキリストの姿が全く違ったからではないでしょうか。ピラトの見ていた真理は、ローマの平和であり、政治力と武力による支配、すなわちパクスロマーナのなかに彼の真理は横たわっていたのです。
これは私たちの時代も同じです。真理を目の前に見て、「真理とは何か」、と人類は今も問うています。今、この世は戦争の時代に入り、力による現状変更がまかり通る時代になりました。これが過去二度の世界大戦を経験してきたこの世がたどり着いた状況です。この世は真理どころか、ますます暗闇に向かっています。しかし、この暗闇の時代であるからこそ、「真理を行う者は光の方に来る」、この言葉が響くのではないでしょうか。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」、この御言葉が実現するのではないでしょうか。いいえ、イエスが言われている以上、実現しなければならないのです。
来週は、私たちの新しい会堂の献堂式を行います。そこで私たちはこの教会が主イエスキリストのものであり、主イエスのためにこの会堂をお献げすることを誓います。その献堂式の礼拝で与えられる御言葉は、献堂記念の栞に刻字され、また記念誌の表紙にも謳われています使徒言行録の「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。この町には、わたしの民が大勢いる。(使徒言行録18:9、10)」、この御言葉です。約55年前にこの高島平の地で開拓伝道を始めた佐々木稔先生は、この御言葉に立って福音宣教をスタートさせました。私たちの遣わされています、この高島平の地には、神の民が大勢いるのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」、私たちは、もう一度、開拓伝道の信仰に立とうではありませんか。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」、「真理を行う者は光の方に来る」、この御言葉が私たちの街で実現するために。「真理とは何か」、それは十字架のイエスキリストである、改めてこの証を立てるために福音宣教に勤しんでいきたいと願います。