2025年11月02日「ピラトの肩書き」
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ピラトの肩書き
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 18章28節~38節a
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聖書の言葉
28節 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
29節 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
30節 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
31節 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
32節 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
33節 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
34節 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
35節 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
36節 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
37節 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
38節a ピラトは言った。「真理とは何か。」
ヨハネによる福音書 18章28節~38節a
メッセージ
説教の要約
「ピラトの肩書き」ヨハネ18:28〜38a
本日から主イエスがポンテオピラトの面前で裁きを受ける場面に入ります。この箇所も一回の説教で解き明かすことなど到底できないほど大切な真理が綴られていますので、今週、来週と2回に分けて丁寧に学んでいきたいと願っています。
主イエスを十字架につけようと企むユダヤ人の指導者層との押し問答の末、ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」、と尋問を始めます。ユダヤ当局は、主イエスを反ローマ運動の先導する者にでっち上げてポンテオ・ピラトに告訴したからです。当時ローマ当局が、その属州で最も警戒していたのは政治犯でした。特にこの時代、ユダヤ人の中でメシア運動が活発であって、自をメシアと名乗り、暴動や反乱を起こしてローマ帝国領内を混乱させる危険分子がしばしば現れたからです。
ここで覚えておきたいのは、ピラトが真っ先に尋問したこの「ユダヤ人の王」というのが、結局主イエスの罪状書きとなるということです。(*19:19参照→「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。」)
さて、「お前がユダヤ人の王なのか」、と問われた主イエスが回答します。
「イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。(34節)」、ここで、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか」、と訳されていますが、これは少し訳しすぎかもしれません。もともとの本文でありますギリシア語の聖書では、ここに「考え」という言葉はありません。正確に訳しますと、「あなたは自分自身からそれをいうのか」、となります。つまり、ここでは、「お前がユダヤ人の王なのか」、と言うのはあなたの言葉なのか、それともそれは、ほかの者たちの言葉なのか、と主イエスは問い返しているのです。イエスがユダヤ人の王であるのかないのか、その回答がピラト自身に求められているわけです。
しかし、ピラトはその答えを回避します。「ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。(35節)」、このように、「わたしはユダヤ人なのか」、とピラトは自身の立場を確認させます。つまり、イエスがユダヤ人の王であるのかないのか、それはユダヤ人が決めればいいことであって、ローマ国民であるこの私には関係がないことだ、これがピラトの論法です。しかし、「お前がユダヤ人の王」であることをジャッジするはずの「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ」、とピラトは続けるのです。その場合、イエスが「ユダヤ人の王」であるはずはないではないかという結論にピラトは導かれるわけです。ユダヤ人の王であるのなら、その同胞や祭司長たちの王に他ならないからです。
であるとしたら、そもそも、イエスが「ユダヤ人の王」であるという訴えは、その土台を失うわけなのです。「ユダヤ人の王」と自称して民族を惑わしてメシア運動をしていた、というユダヤ当局の訴えは虚偽告訴となるからです。つまり、ナザレのイエスは地上的なメシアとしての政治運動などしていないのであって、ナザレのイエスは無罪なのです。
ですから困惑したピラトは、「いったい何をしたのか」、とお手上げ状態になっているわけです。そして、実に、「いったい何をしたのか」、この回答を見出せないまま結局ピラトはイエスを十字架につけるのです。つまり彼はイエスが何者であるかを理解できなかった人物の一人であった、ということです。
ピラトは、この世を代表する人物のように思えてなりません。何度も開きましたが、この福音書の20章の最後にこの福音書が執筆された目的が、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(20:31)」、と明確に記されています。ピラトはそれにもれた人物の代表なのです。
私たちは毎週礼拝の最後に使徒信条を告白します。使徒信条は、最初期の教会から連綿と続くキリスト教信仰を最も簡潔に告白した信条で、極めて重要だからです。
この大切な使徒信条の中に二人の人物が登場します。それがおとめマリアとポンテオピラトなのです。面白いことにそれ以外の信仰者は一切登場しません。使徒信条におきまして、「乙女マリアより生まれ、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」、と両者は接近し、この枠組みに主イエスのご生涯が要約されています。マリアが女性を代表し、ピラトが男性を代表しているかのようにも思えます。もしそうなのでしたら、男性陣としては悲しい限りです。この信条が告白された最初期の教会の時代の男尊女卑が当たり前であった文脈で言えば、対照的な二人であったはずです。しかし、ジェンダーの平等が当たり前となった現代でも相変わらず両者は対照的です。それは男であるか女であるかではなく、強いか弱いか、豊かであるか貧しいか、そのコントラストです。
しかし、使徒信条の文脈で正確に申し上げれば、この両者はイエスを産んだ者とイエスを殺した者との対照です。マリアは聖霊の力によってイエスを身籠った、しかし、ピラトは、この世の力でイエスを殺した、この違いです。ピラトは、この世を代表する人物のように思えてなりません、と先ほど記したのは、この理解に基づきます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)」、とこの福音書は謳います。
「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、言い換えれば、「その独り子を十字架で殺されるほどに神はこの世を愛された」のです。逆に言えば、この私の罪がイエスキリストを十字架につけた、これは全人類の立場なのです。しかし、その立場に立って、イエスを信じないのであれば、イエスを十字架につけた、というその罪だけが問われるのです。そして、その代表がピラトなのです。だから使徒信条に謳われるポンテオピラトの肩書きはイエスを十字架につけた男なのであり、そして、実に、このポンテオピラトの肩書きは、私たち全人類の肩書きなのです。私たちがイエスを十字架につけたからです。
主イエスを信じない以上、このピラトに続く者とされていくわけです。「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、この神の愛を受けるか受けないか、それはイエスキリストの十字架を受けるか受けないかにかかっているのです。
マリアは聖霊の力によってイエスを身籠った時、なんと言ったでしょうか。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」、です。私たちも聖霊の力によって主イエスがこの身体の中に住まわれていることを知っています。これが信仰です。実に信仰というのは、「お言葉どおり、この身に成りますように」、この神の言葉に対する絶対的な信頼なのです。
私たちは、この後聖餐式に与ります。この宴こそ、イエスキリストの十字架を受けることに他なりません。この聖餐式のパンと盃が私たちの体内で血となり肉となるように、このパンと盃を通して私たちの中に確かに主イエスが生きておられて私たちが主イエスに結合されている、この事実を確認することが許されるのです。
「いったい何をしたのか・・・」、イエスは私のために十字架についてくださった。罪の赦しと永遠の命を勝ち取ってくださった。そうです、私たちの救いと命に必要な全てのことを実現してくださった、これが私たちの救い主イエスキリストなのです。