然りと否
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 18章19節~27節
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聖書の言葉
19節 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
20節 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
21節 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
22節 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
23節 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
24節 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
25節 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
26節 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
27節 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
ヨハネによる福音書 18章19節~27節
メッセージ
説教の要約「然りと否」ヨハネ18:19〜27
本日の御言葉では、ペトロの2回目と3回目の否認が記録されています。
先週の御言葉で、門番の女中に、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」、問われて、ペトロは、「私は違う」、と主イエスの弟子であることを否定したわけですが(17節)、この最初の門番の女中の追求が一番甘いものであったはずなのです。当時は、女性の立場は弱く、人数としても数えられないのが当たり前だったからです。
ですから門番の女中くらいなら、わけなく切り抜けられるし、門番の女中ごときに告げ口されて正体が明らかになってお縄になるのではカッコがつかない、そういう気持ちもあったのかも知れません。しかし、本日の御言葉の2回目の追求では、「人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと(25節)」、と記録されていて、この人々というのは、男性の複数形ですから、ここでは複数の男性によって、ペトロは問い詰められているのです。つまり、それこそ二人、三人の証言によってペトロは追求されているわけです。ですから、いよいよ、ペトロが自分がイエスの弟子であることを告白する舞台が整ったわけです。門番の女中ごときに正体を明かされるのでは面目が立たない、と思っていたのなら、まさに今こそ面目躍如の時到来、と言ったところです。
しかし、「ペトロは打ち消して、「違う」と言った」、これがペトロの回答でした。ここで、ペトロは、自分がイエスの弟子でないことの方に、二人、三人の証人をこしらえようとしているのです。つまり、これは公的で決定的な否認です。しかし、それで終わりではありませんでした。続いて、「大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。(26節)」、とペトロは追及されます。これは動かぬ証拠です。「目撃証言」、しかも、「ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者」の目撃証言で、もうここまで来れば降参する以外なかったはずです。
この時代は、もちろんレコーダーどころかカメラさえも当然ございません。ですから余計に目撃証言は絶対的だったのです。しかし、「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた(27節)」、とさらにペトロはシラを切ります。どうやって切り抜けられたのかは分かりません。ただこの時点でペトロの正体が見破られなかったことは事実です。結局、ペトロは三度主イエスの弟子であることを否定してしまったのです。聖書的に三回というのは、決定的な意味を持ちます。ですから、ペトロが三度主イエスを否んだということは、徹底的に自分が主イエスと無関係であるという証言をした、ということなのです。
この段落の最初で、「シモン・ペトロは立って火にあたっていた(25節)」、とペトロの姿が示されます。この「火にあたっていた」、の部分は完了形で、過去の動作がそのまま継続している状況を示します。ですから、ここは、「シモン・ペトロは相変わらず立って火にあたっていた」、と訳しても良いくらいなのです。つまり、18節に戻りまして、「ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」、この姿がそのまま続いていたという理解です。この時ペトロは、主イエスの第三者に成り下がって主イエスを捕まえた人々と同じ場所にいて、同じ動作をしていたわけです。主イエスの第三者となった以上、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」、と問われて、「はいそうです」、とは言えないのです。
先週も申し上げましたように、最初の門番の女中からされた最も甘い追求の時に逃げてしまった、実は、これがペトロの否認の最大の試練であったのです。イエスは主である、この信仰告白は「相手がどうだ」、ではないのです。
本日は「然りと否」、という説教題が与えられました。然りは然りと言わなければならない、ところが、ペトロは然りを否に変えてしまったのです。しかし、主イエスは、然りは然り、否は否である、この真理を一度も曲げませんでした。本日の御言葉では、この主イエスとペトロの姿が実に対照的に描かれているわけです。ここでは、ペトロが然りを否に変える一方で、鎖に繋がれながら正々堂々と真理を語る主イエスの姿がクローズアップされています。
この主イエスのお姿は、パウロがテモテに書き送った書簡で謳われています。
「次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:11〜13)」、この通りです。これは、最初期の教会で広く謳われていた讃美歌ではないか、と言われています。12節の後半で「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる」、という歌詞があります。これがペトロに適用されたら一発でアウトです。しかし、この讃美歌は、すぐに、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」、と続くのです。
私たちは誠実ではないのです。然りと言わなければならない時に否と言ってしまうこともあるのです。然りを否に変えてしまうこともあるのです。しかし、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」、ここに救いがあるのです。「キリストは御自身を否むことができない」、この主イエスが私たちの救い主である以上、わたしたちがどんなに臆病で愚かで弱くても、主イエスが私たちの主であり、飼い主である、という約束は変わらないのです。まさに三度主イエスを裏切ったペトロの姿が歌われたような讃美歌です。
主イエスに赦されて悔い改めて立ち返り、福音宣教に勤しむペトロの姿が、使徒言行録で実に鮮やかに記録されています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。(使徒言行録4:12、13)」、ここでは、ペトロが、十字架のイエス以外に救いがどこにもないことを宣言しています。そして、そのペトロの姿を、「大胆な態度」、と聖書は言います。実は、この「大胆な」、という字が、本日の箇所で、主イエスが、わたしは、世に向かって公然と話した(20節)、と言われているこの「公然と」、と全く同じ言葉で、ギリシア語の「パレーシア(παρρησία)」なのです。ここでは、ペトロも、世に向かって公然と話すように変えられているのです。しかも、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」、と問われて三度イエスの弟子であることを否定したペトロが、ここでは「イエスと一緒にいた者であるということも分かった」、とその正体が明らかにされていたのです。然りを否に変えた男が、然りを然りと言えるようにされた。これが主イエスキリストの弟子の姿ではないでしょうか。時間はかかるかもしれない。しかし、わたしたちもまた、「世に向かって公然とイエスは主である」、と告白するためにここに集められているはずです。
そうである以上、必ずその舞台が与えられます。一度や二度の失敗に挫けてはならない。主イエスの一番弟子が、三度、つまり、徹底的にイエスを否定したからです。「世に向かって公然とイエスは主である」、と告白する時、それは、然りは然り、否は否、この真理に立つ時であります。
これこそ本当の自由であり、この自由を束縛できる力は、この世には一つもありません。「キリストは御自身を否むことができない」、この飼い主である私たちの主イエスキリストに従ってまいりましょう。