2025年10月12日「十字架へ向かう道」
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十字架へ向かう道
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 18章12節~18節
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聖書の言葉
12節 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
13節 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
14節 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
15節 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
16節 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
17節 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18節 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
ヨハネによる福音書 18章12節~18節
メッセージ
「十字架へ向かう道」ヨハネ18:12〜18
先週までの御言葉で主イエスは、ゲッセマネの園で逮捕され、本日の箇所では主イエスが、大祭司の屋敷まで連行される場面へと進み、そしてペトロの最初の否認が描かれます。
「門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。(17節)」、この「門番の女中」によって、まずペトロはイエスの弟子であることを問われたわけです。しかし、ここで「ペトロは、「違う」と言った」と、聖書は記しています。この「違う」という表現は、非常に簡潔に訳されていますが、もともとのギリシア語の本文では、これは、単にNo!なのではなくて、「私ではない」、というややフォーマルな言い方になっています。
繰り返し確認してきましたように、主イエスがご自身を言い表す時、「わたしはある」、という表現を使われます。これは、ギリシア語では、「エゴー・エイミー(Ἐγώ εἰμι)」と発音し、この言葉によって主イエスはご自身が生ける真の神であることを宣言してきたわけです。
この「エゴー・エイミー(Ἐγώ εἰμι)」の「エゴー(Ἐγώ)」という字は、「私は」という意味で、「エイミー(εἰμι)」という字はギリシア語のbe動詞で、一人称単数のかたちです。そして、このペトロの「違う」という回答は、これを否定した表現で、ギリシア語の否定詞である「ウーク(Οὐκ)」という字に、そのギリシア語のbe動詞一人称単数の「エイミー(εἰμι)」を組み合わせて、「ウーク・エイミー(Οὐκ εἰμι」)と発音するのです。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」、この質問に対してペトロは、「ウーク・エイミー(Οὐκ εἰμι)」、すなわち「わたしはある(エゴー・エイミー・Ἐγώ εἰμι)」の正反対の言葉で返答したわけなのです。実にその時、ペトロもまた、主イエスが「わたしはある・エゴーエイミー(Ἐγώ εἰμι)」であられること、神の御子であることを否定していたのです。
この後ペトロは、2回、そして3回、と最終的に三度主イエスと無関係であることを公言します。次週詳しく確認しますが、その追求はどんどん厳しくなっていって次第にペトロは追い込まれていくのです。ですから、実は、この最初の「門番の女中」の追求が一番甘いものであったわけなのです。
当時は、男尊女卑が当たり前のようにまかり通っていましたので、「門番の女中」程度ならどうにかなる、切り抜けられる、とペトロが思った可能性は高いのではないでしょうか。あるいは、まだその時でないという気持ち、つまり、「門番の女中」ごときに告げ口されて正体が明かされてお縄になるのでは、カッコつかない、そういう気持ちもあったのかも知れません。しかし、いずれにせよ、今ペトロは、主イエスこそが、「エゴー・エイミー(Ἐγώ εἰμι)」、神の御子であるという信仰告白を放棄してしまったことは事実です。
キリスト者である以上、相手が誰であろうと、どのような場面であっても、イエスは主である、この立場を変えてはならないのです。幼子に対しても、国家の指導者に対しても、順境にあっても逆境にあっても、イエスは主である、この信仰告白に立ち続ける、これが信仰者の命綱なのです。
ですから、「私は違う(ウーク・エイミー・Οὐκ εἰμι)」、と主イエスの弟子であることを否定した時、その相手がどうであれ、なし崩し的に信仰は崩壊してしまう、これが、このペトロに最初の否認で示されているのではないでしょうか。
その後のペトロの姿が、「僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。(18節)」、と記されています。弟子であったはずのペトロが、彼らと同じ位置まで成り下がってしまった、ということでありましょう。ですから、聖書は、ここで僕や下役たちの姿もペトロの姿も「立って」、という同じ言葉で表現しているわけです。ペトロは、主イエスと共に立っていたのではなく、第三者である者たちと共に立っていた、ということです。ここでペトロの立場はイエスの第三者以外ではないのです。因みにギリシア語でこの「立つ」という字は、ゲッセマネの園で使われていた「倒れる」という字の対義語で、立つか倒れるかが問われる非常に大切なコントラストとしての用例もあります(Ⅰコリント10:12、13等を参照)。
本日は、「十字架へ向かう道」という説教題が与えられました。本日の箇所から主イエスは拘束され、いよいよ十字架への道が決定的になったからです。しかし、その最初の場面である本日の御言葉に主イエスのセリフは一切ありません。主イエスを取り巻く者たちの姿が描かれながら出来事が進展し、十字架が近づいていくのです。
何よりも、主イエスの12弟子の筆頭とも言えるペトロが、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」、と問いかけられて、「私は違う」と否定し、主イエスを拘束した人々と同じ立場で何食わぬ顔をしていました。つまり、主イエスの周りを取り囲むものはたくさんいても、主イエスの仲間は、一人もいなくなったのです。鎖で縛られ、十字架の道を歩む主イエスは一人であったわけです。
キリスト教というのは、一人の主イエスから始まった、ということを今日は覚えておきたいのです。
主イエスは、一人で十字架の道を歩まれ、そして十字架で殺された。ですから、その後主イエスが復活されなかったら、キリスト教など影も形もなかったでしょう。しかし、何百人もの目撃証言が得られる歴史的事実として、確かに主イエスは復活したわけです(Ⅰコリント15:3〜8参照)。
この事実に最も救われたのは、三度主イエスを知らないと裏切ったペトロでしょう。ペトロは、復活の主に救われ、福音宣教に勤しみ、そして最後には十字架で、しかも逆さの十字架で殉教したという伝説が残っています。主と同じ向きで十字架につけられるのが恐れ多い、という立場であったようです。この逆さ十字の信憑性がどれほどのものかはわかりません。しかし、ペトロが殉教したのは事実でありましょう。主イエスが予告した通り、確かに彼は主イエスの御後に従ったのです(13:16)。
そのペトロが、殉教の死の直前に書いたもの、あるいはペトロの死後その遺言をペトロの弟子たちが編集したものである、と言われるペトロの手紙にあるペトロの勧告を最後に確認いたします。
「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。(Ⅰペトロ3:15、16)」、主イエスの十字架の直前に一人の女中に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」、と問われて、「私は違う・ウークエイミー(Οὐκ εἰμι)」、とシラを切ってしまったペトロだから余計に響きます。
「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」、とペトロが勧告します時、キリスト教信仰に、「自分を棚に上げて」、とか、「どの面下げて」、という立場はないのです。前科さえもございません。そうでしたら誰も信仰者として残されません。いかに大きな過ちであっても、悔い改めれば帳消しにされるのです。
自らがやってしまった最も大きな罪を悔い改めて後の世代に伝える、これがキリスト教信仰であり、ペトロの生き方そのものであったのではないでしょうか。
私たちも、ペトロと共に主イエスと無関係であるように振る舞った日々を悔い改めて、「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」、この御言葉に立とうではありませんか。その歩みは、十字架の主イエスキリストに続く道となりましょう。