2025年09月28日「だれを捜しているのか〜イエスは誰か〜」
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だれを捜しているのか〜イエスは誰か〜
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 18章1節~11節
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聖書の言葉
1節 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
2節 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
3節 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。
4節 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。
5節 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
6節 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。
7節 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
8節 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
9節 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
10節 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
11節 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
ヨハネによる福音書 18章1節~11節
メッセージ
説教の要約
「だれを捜しているのか〜イエスは誰か〜」ヨハネ18:1〜18
本日の御言葉から主イエスが十字架へと向かわれる場面が始まります。
まず、「キドロンの谷の向こう」にあった「園」という場所が出てまいりますが(1節)、これは共観福音書の方では、「ゲッセマネの園」、と呼ばれているその同じところです。
主イエスは、エルサレム滞在中には、ここを祈りの場所にしておられました(ルカ21:37等を参照)。また、「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた(2節)」、とありますように、ここは、12弟子にとっても祈りの場所でした。この世の喧騒から離れて主なる神に祈る場所、昼間の活動のための信仰の養いの場所、それがゲッセマネであったわけです。
つまり、ユダは祈りの場所を裏切りの場所に変えてしまったのです。今ユダは、この世の喧騒から離れた場所に、この世の喧騒を持ち込んで、祈りの場所を争いの場所に変えるのです。
さて、事態が急転します。「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。(3節)」、ここで、一隊の兵士や下役たちの手にしていたものが、「松明やともし火や武器」であったことが記録されていますが、その三つのうち二つが照明のための道具であることに注目したいのです。この時代は現在と違いまして、夜になると周りは暗黒に包まれます。ゲッセマネの園は、都エルサレムの郊外にありましたので、その暗さは想像以上であったはずです。
つまり、ここでは、「松明やともし火」、と繰り返し記されている照明が、イエス逮捕には絶対必要な武器であった、そういう事実がそのまま記録されているように思えるのです。
ところが、主イエスは当然灯りなど持っていません。しかし、その上で、ここでは、「進み出て(4節)」、と主イエスの行為が記されていますのが重要です。暗闇の中で兵士たちは、それぞれ明かりを手に持っているのです。しかし、主イエスは、暗がりから丸腰でその明かりの中に「進み出て」いかれたのです。
トンネルから明るい場所に出ただけで一瞬目が眩みます。ですから、主イエスの側からは、相手の状況はよく見えなかったはずです。逆に明かりを持っている兵隊たちにとっては、積極的に前に進み出てくれた主イエスは、それこそ飛んで火に入る夏の虫状態であったはずです。ところが、主イエスは逃げもかくれもせずに、むしろ「だれを捜しているのか」と正々堂々と彼らの前に立ったわけです。
そして、「だれを捜しているのか」、この主イエスの問いかけに対して彼らは、「ナザレのイエスだ」と答え、それに対して「イエスは「わたしである」と言われた(5節)」、と記録されています。この「わたしである」、という表現は、ギリシア語で「エゴー・エイミー(Ἐγώ εἰμι)」、と発音するこの福音書で繰り返されてきた「わたしはある」、というあの主イエスの自己啓示の定型句と全く同じで、これは当時のユダヤ社会におきまして、生ける真の神の称号でありました(出エジプト3:14参照)。
つまりここでは、「ナザレのイエス」=「わたしである」、すなわち「ナザレのイエス」こそ生ける真の神である、ということが明らかにされているのです。「ナザレのイエス」というお尋ね者が、生ける真の神であった、という恐ろしい事態がここで起こっているのです。
さて、「わたしである」、すなわち「ナザレのイエス」こそ生ける真の神である、この主イエスの言葉が暗闇に響いたときの様子が描かれます。
「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。(6節)」、ヨハネ福音書の中で、あるいは、聖書全体の中でもこれ以上に劇的な場面はそうはないように思えます。お尋ね者にスポットが当てられ、確かにそこには彼らが探していた「ナザレのイエス」が現れた、しかし、そのお尋ね者の「ナザレのイエス」が「「わたしである」と言われたとき」、彼の前から兵士たちは退却し、そして地に倒れてしまった。「わたしはある」、この生ける真の神の前に人間は立つことさえできないからです。
ここでは光と闇が逆転しています。兵士たちが手にしていた「松明やともし火」、これらの武器は、全く機能していません。むしろ、この闇の中を支配しているのは、真の光である主イエスキリストなのです。この光と闇との関係は、この福音書で繰り返しテーマとして扱われてきました。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。(3:19〜20)」、この通りです。
「わたしはある」、この主イエスのお声がゲッセマネの暗闇で響いた時、「後ずさりして、地に倒れた」者たちは、ことごとく「その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」、この闇に属す人たちであったわけです。
しかし、主イエスは、続いて「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(21節)」、と言われています。「わたしはある」、この主イエスのお声に倒れてしまう者がいる一方で、「わたしはある」、と主イエスの声が響いたときに立ち上がる者もいるのです。ですから、大切なのは、この福音書で繰り返えされてきた、「イエスは誰か」、という最大の問題に対する回答なのです。大切なのは「イエスは誰か」、なのです。そして、「だれを捜しているのか」と言われた。」、実にこれが、「イエスは誰か」、という問いかけになっているのです。
「イエスは誰か」、と問われて咄嗟に彼らは「ナザレのイエスだ」、と回答しました。すかさず、「イエスを裏切るユダも彼らと一緒にいた」、と聖書は記録しています。つまり、「イエスは誰か」、ユダにとっても、それは「ナザレのイエス」以外ではなかったということなのです。しかし、その時、「わたしはある」、すなわち主イエスキリストこそ神である、この真理が暗闇の中で響き渡ったのです。
このゲッセマネの暗闇は、この世を象徴しているように思えます。この世は、真の光を無視し、頼りにならないこの世の光で足元を照らしながら真理を探しているのです。しかし、その真理であられるイエスは、その暗闇におられるのです。
今も、「だれを捜しているのか」この声が響いています。イエスは誰か、それは人類の死活問題なのです。どう答えるのか、それが立つか倒れるかを決定づけるのです。「地に倒れた」、これは、主イエスを否むこの世の人々の姿なのです。
今、この世は、煌びやかに輝いているように見えます。しかし、結局は、どれもこれもむなしい光なのです。物理的な光は、物理的にしか機能しないからです。命へと導く真の光は神の言葉にしかございません。この主の御言葉に固く立って、「だれを捜しているのか」、と問いかけるのが私たちの役割です。
強く雄々しく福音宣教に遣わされようではありませんか。主イエスが先に進み出てくださっています。「だれを捜しているのか」と。