十字架の重さ
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 17章24節~26節
24節 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25節 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
26節 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」ヨハネによる福音書 17章24節~26節
説教の要約
「十字架の重さ」ヨハネ17:24〜26
本日で17章の最初から始まりました主イエスの祈りを記録している御言葉が終わります。
この祈りは13章の途中から16章の終わりまでで記録されています主イエスの告別説教の後にささげられたもので、十字架の死を直前にひかえた主イエスの祈りであります。本日の箇所を最後に、いよいよ主イエスは十字架へと向かっていかれるわけです。
ここでまず大切なのは、主イエスが、「わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください(24節)」、と祈られているところです。「わたしのいる所」、すなわち主イエスのおられるところ、それはもはや地上ではありません。この主イエスの祈りは、主イエスの十字架と復活の後、ペンテコステから始まる福音宣教の時代に視点が当てられていて、その時、主イエスはもはや地上にはおられず、天におられるからです。ですから、「わたしのいる所に、共におらせてください」、というのは、具体的には、天におられるキリストと地上にいる信仰者とが共にいるという状態なのです。この世的な発想ですと全くもって不可能なことでありますが、信仰の世界におきまして、これは可能というよりも、いたってノーマルで、現に今、実現している状況に他なりません。
私たちの信仰は、インマヌエル、すなわち主ともにいます、という確信に立っているからです。
この世界のどこにいても、生きていても死んでいても、私たちは私たちの唯一の救い主イエスキリストに結び付けられている、天と地を貫いて私たちは結び付けられている、一体である、これがキリスト教信仰の核心でもあります。
しかし、私たちが主イエスに結び付けられていて、それで「めでたしめでたし」、でおしまいではないのです。このインマヌエルには目的があります。それが続く、主イエスの祈りで、「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」、と示されていて、これが、主ともにいます、というインマヌエルの目的です。ここで言われています栄光というのは、主イエスの十字架と復活です。それを「彼ら」、すなわち、すべてのキリスト者に見せるため、それが、「わたしのいる所に、共におらせてください」、このインマヌエルの目的である、ということなのです。
主イエスの十字架と復活は、歴史上の事実として一度きりのことでありますが、それは決して昔話でも伝記でもないのです。それは、御言葉によって常に私たちが見続け、確認し続けている現実なのです。イエスは偉い人でみんなの罪を背負って十字架について下さった、とか、そのイエスが死者の中から復活された、という歴史的な事実を客観的に知っていても、それだけでは何もならないのです。それが、常に、この私との関係で現実になっていなければ全く意味がないのです。
2000年前パレスチナの片隅で起こったイエスキリストの十字架と復活、それは他ならぬこの私の罪を洗い清め、この私に永遠の命を与えてくださるためであった、これが、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです、この主イエスの祈りの意味であり、主が共にいてくださるインマヌエルのその目的なのです。
さて、いよいよ、主イエスの祈りの幕が閉じられます。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。(26節)」、ここで、まず、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます」、と主イエスは祈られます。この御名というのは、天の父なる神の御名でありまして、これも何度か確認してまいりましたように、聖書的に名前というのは、その対象の単なるラベルのようなものではなくて、その存在全体を指す言葉です。主イエスの役割は、天の父の御名を、救われるために選ばれた人々に現すことである、これが最後で示されているのです。そして、それが今十字架によって実現するのです。イエスキリストの十字架に神の義が完全に示されていて(ローマ書3:21参照)、それによって私たちは神がどのような方であるかを知るのです。
さらに主イエスは、「また、これからも知らせます」、と続けられます。実は文法的に、この「知らせます」、という動詞の時制は未来形です。主イエスは、今までこの祈りの中で、これから起こることをまるでもうすでに実現してしまったかのように過去形で、あるいは完了形で示されてきました。しかし、ここでポツンと未来形で、これから起こる出来事として語っておられるのです。どうしてでしょうか。
それは、主イエスが、これから始まる福音宣教の時代に期待をされているからなのです。主イエスは福音宣教に私たちを用いてくださる、だから未来形なのです。それは、神のご計画によって必ずや成功し、神の国の完成へと導かれます。しかし、福音宣教は、出来レースではなくて、めくるめくような信仰の戦いなのです。「また、これからも知らせます」、という決意を常に抱いて信仰の戦いを続ける、これが福音宣教なのです。主イエスは、ご自身が天に昇られた後に始まる福音宣教の時代が、すでに完成されたものではなくて、今から始まるものとして言葉を使い分けておられるのでありましょう。それだけ、私たちが生かされている福音宣教の時代、教会の時代は重要なのです。
さて、最後に主イエスは、「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」、と言われて祈りを終えられました。これが、「また、これからも知らせます」、と主イエスが言われた福音宣教の目的と言えます。この「わたしに対するあなたの愛」、というのは、24節にありますように、「天地創造の前」に遡る神の愛です。ですから、この「愛が彼らの内にあり」、というのは、「天地創造の前」に遡る神の愛に私たちも与るという驚くべき恵です(エフェソ1:4、5参照)。そして、これが福音宣教の目的であり、私たちが永遠の神の愛に奮い立って福音宣教に仕える時こそ、「天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」、この主イエスが共におられるというインマニエルの目的も実現していくはずです。
この「わたしの栄光」というのは、主イエスの十字架と復活である、と途中で確認しました。つまり、十字架と復活というのは、「天地創造の前から」、父が御子主イエスを愛されたその結晶であるということです。これが十字架の重さではないでしょうか。
「天地創造の前」、すなわち、三位一体の神以外何も存在しないその世界にまず愛があって、その愛は私たち罪人を救う十字架へと始動していた、ということなのです。
本日招きの言葉で与えられた「初めに、神は天地を創造された(創世記1:1)」、この御言葉が実現する以前に十字架の愛は存在していたのです。なんということでありましょうか。
まさに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3:16)」、この神の愛です。
この計り知れない、言葉にもできないような愛が、永遠の昔から救いに選ばれていた私たちに与えられている神の愛なのです。
私は説教者としてこれ以上語ることを畏れます。
私が語れば語るほど、神の愛が空しく響くように思うからです。
ただ、「十字架の愛は、神の愛そのものである」、と全く足りない言葉を最後に申し上げるのが精一杯です。