2025年09月07日「キリスト者とこの世との関係」
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キリスト者とこの世との関係
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 17章13節~19節
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聖書の言葉
13節 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
14節 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
15節 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
16節 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17節 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
18節 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
19節 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
ヨハネによる福音書 17章13節~19節
メッセージ
説教の要約
「キリスト者とこの世との関係」ヨハネ福音書17:13〜19
本日与えられた御言葉は、主イエスの祈りの続きで、私たちキリスト者とこの世との関係が示されています。前回確認しましたように、この主イエスの祈りの対象は、直接的には今主イエスの目の前にいる11名の弟子たちですが、世の終わりまでこの御言葉が与えられるすべての信仰者もそれに含まれ、当然私たちもその中にいるわけです。
ここで、主イエスが、「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました(14節)」、と言われていますように、ここでは、「御言葉」が、この世と弟子たちとの間に決定的な亀裂を生み出していることが示されています。「御言葉」とは、単に主イエスが語った言葉だけでなく、神の言葉である主イエスそのお方でもあります。ですから、続いて、 「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」、と弟子たちが、神の言葉である主イエスに属しているがゆえに、この世には属していないのだ、ということが明確にされているのです。
その中間はないのです。この世に属していながら、キリストにも属している、という調子のいい話はないのです。特に物質的には豊かなこの国で信仰者として歩んでいます私たちは、改めて自らの信仰的な立場を問い直さなければならないと思います。この世か、主イエスか、と。
しかし、それを示された直後の、「 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(15節)」、このキリストの祈りが非常に大切です。
神の言葉によって、この世と私たち信仰者の間には断絶があります。しかし、私たち信仰者はそれでも尚、この地上と無関係ではないということなのです。私たちは、この世と完全に分けられていて、真空状態で信仰が守られる、というようなことではないのです。むしろ、神の言葉と御言葉その方であられる主イエスを憎み、十字架で殺したその同じこの世の只中で、私たちは生きていくのです。
ですから、続いて、私たち信仰者とこの世との関係がさらに明確にされていきます。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。(17節)」、ここでは、再度、主イエスに連なる信仰者が、この世に属していないことが確認された上で、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」、と続きます。
この「真理」というのは具体的には「御言葉」です。ですから、「あなたの御言葉は真理です」、とすぐに示されて、「御言葉」=「真理」とされるわけです。つまり、「真理によって、彼らを聖なる者としてください」、これは、「御言葉によって、彼らを聖なる者としてください」、と言い換えることも普通に可能であるわけです。
また、この「彼らを聖なる者としてください」、の「聖なる者とする」という表現は、私たちがよく使う言葉で「聖別する」、と言い換えることができます。御言葉によって、聖別される、それが主イエスの弟子である私たち信仰者であるのです。つまり、ここでも「御言葉」が、この世と信仰者をふるいにかけるその基準とされているわけです。逆に言えば、「御言葉」がないのであれば、私たちはこの世との見分けがつけられないのです。
キリスト者というと、倫理的に正しいとか、聖人君子的なイメージがつきまといます。当然、「御言葉」に生かされている以上、結果的にそのような姿が映し出されることもありましょう。しかし、それは本質的なことではありません。倫理的な正しさのようなものは、キリスト者であろうがあるまいが、それとは無関係に与えられています。しかし、「御言葉」が与えられているのは、キリスト者だけなのです。「御言葉」が与えられているのかいないのか、それがキリスト者とこの世との違いなのです。
週ごとに礼拝に招かれ、御言葉の解き明かしによって信仰が養われる、これがいかに大切なことであるかを私たちはもう一度思い巡らせて、最善を尽くして礼拝に招かれ、御言葉によって聖別され、主なる神に仕える生活を続けたいと願います。
しかし、御言葉によって聖別される以上、それだけでは終わらないのです。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(18節)」、つまり、御言葉によって聖別されると同時に、私たちはこの世に遣わされる、ということです。むしろ、御言葉によって聖別されるその目的がこの世への派遣なのです。
神の国というのはこの世の要塞のようなものでも、真空状態のようなものでもないのです。そうではなくて、神の国はこの世に常に開かれて、この世の只中に存在し、救いの扉が開かれた場所なのです。つまり、この私たちの教会にこの地上の神の国があり、ここに救いが実現していて、私たちは、週ごとにこの場所からそれぞれの持ち場へと遣わされるわけなのです。この全体像が「聖別される」、ということなのです。
実は、19節の「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」、そして、「彼らも、真理によってささげられた者となるためです」、と繰り返されます「ささげる」という字は、17節の「真理によって、彼らを聖なる者としてください」、この「聖なる者とする」と同じ言葉なのです。つまり、「ささげる」=「聖別する」なのです。私たちが聖別されるのは、この世と無関係に清くされ、この世と無関係に救われる、という意味ではないのです。むしろ逆です。私たちが聖別されるのは、この世の中に遣わされて、不信仰と罪にまみれながら、その中で福音宣教に勤しむことなのです。これがキリスト者とこの世との正常な関係ではないでしょうか。
私たちの周りには、主イエスを信じない多くの方がおられ、この世は真っ直ぐに滅びへと向かっています。だからこそ、そこに御言葉がなければならないのです。そこに真理が輝かなければならないのです。その役割が与えられているのが私たちキリスト者です。いいえ、私たちがやらないで一体誰がやるのでしょうか。しかし、怖気付く必要など全くありません。「あなたの御言葉は真理です」、と主イエスが言われるからです。その場合、私たちが弱かろうが、貧しかろうが、臆病であろうが、それは問題ではないのです。下手くそでも、ポンコツでもいいのです。私たちに説得力がなくても、御言葉にはこれ以上ない説得力があるからです。ですから、大切なのは、御言葉が示すままに真理を語ることです。その真理に私たちが生きることです。最も簡潔に申し上げれば、その真理とは、「神の御子が私たちのために十字架で死んでくださったこと、そして三日目に復活されたこと、この十字架の主イエスを信じれば罪赦され、永遠の命が与えられる」、このことです。
福音宣教はこの世の賛同を得ることが目的ではありません。喝采も賞賛も不要です。キリストの十字架と復活が正しく語られれば十分なのです。私たちの役割は信じさせることではないからです。それは聖霊なる神様のお働きであって、そもそも私たちにはそんなことできません。私たちの役割は、信じさせることではなくて、この私が信じることです。しかも徹底的に信じることです。神の御子の十字架に赦され、永遠の命に生かされた者として、この地上を歩むことです。
それが、「真理によってささげられた者」であり、これがキリスト者のこの世に対する関係なのです。