2025年08月24日「どうしてイエスの弟子なのか」

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どうしてイエスの弟子なのか

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 17章9節~12節

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9節 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです
10節 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
11節 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
12節 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
ヨハネによる福音書 17章9節~12節

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説教の要約

「どうしてイエスの弟子なのか」ヨハネ福音書17:9〜12

先週確認しましたように、17章の最初から記録されている主イエスの祈りの中で、本日の聖書箇所から、主イエスの執りなしの祈りが始まり、その対象者が、9〜19節までは、主イエスの弟子たち、そして、20節から最後までは、それ以外の全ての信仰者となっていきます。本日から、その第一部とも言えます弟子たちに対する主イエスの執りなしの祈りの部分を学んでまいります。

まず、主イエスは、この弟子たちが、どういう者たちであるかを明確にしながら祈られます。

 「世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。(9節)」、ここでは、この世と弟子たちがはっきりと区別されていますが、決して弟子たちが、この世と比較して優れていたわけではありません。この時点では、少なからず、弟子たちもまた、この世の物差しで物事を判断しながら、主イエスに従っていました。主イエスが、その力でエルサレムから異教徒を追い払って王国を築き上げてくださる、弟子たちはその期待に胸を膨らませつつも、その王国完成の暁に、右大臣と左大臣の席に着くのは誰か、という不安さえ抱いていました。

非常にこの世的な立場です。しかし、弟子たちは、天の父が、「わたしに与えてくださった人々」である、というその一点において、この世とは区別されていたのです。これが重要です。

主イエスの弟子というのは、その人物のうちにある才能やポテンシャルの様なものが期待されて任命されるわけではないのです。そのようなものとは全く無関係に神の選びだけにその根拠があるのです。ですから、大切なのは、天の父が主イエスに与えられたか、与えられていないか、このことだけなのです。本日は、「どうしてイエスの弟子なのか」、という説教題が与えられています。まずそれは、神に選ばれたからなのです。神の永遠のご計画に基づいて、この世の論理ではなく、神の論理によって主イエスに与えられた人々、それが主イエスの弟子なのです。

 さらに、主イエスは、「聖なる父よ(11節)」、と主なる神様に呼びかけます。主イエスは、地上を歩まれたときに「アッバ父よ」、と天の父に祈り求め、弟子たちにもそのように祈ることをお許しになりました。「アッバ父よ」、これは「お父ちゃん」くらいのニュアンスで、幼子が初めて口にする父親に対する呼びかけです。ユダヤ教の文献等の研究によって解明された歴史的な事実として、ユダヤ人のラビと呼ばれる教師たちの中で、誰一人そのように神様を呼んだ者はおりません。主なる神様を「アッバ父よ」と呼べたのは、主イエスだけであったのです。主イエスが真の神の御子であったからです。そして、主イエスによって、主なる神様を「アッバ父よ」と呼ぶことが許される、これは主イエスの弟子としての最高の特権であるのです。私たちにもその特権が与えられているわけです。

 その上で、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」、と主イエスの祈りが続くところに視点を当てたいのです。この「御名」というのは、いうまでもなく天の父なる神様のお名前です。そして、先週も確認しましたように、その存在全体、さらにいえば、その存在だけでなく、歴史全体の中でその対象者がどのように関係しているか、それが聖書の意味する名前です。ですから、この「御名」というのは、天地万物の創り主であり、歴史の支配者である、生ける真の神に他なりません。その偉大な「御名」に対して、私たちの立場は、「アッバ父よ」、すなわち「お父ちゃん」なのです。「どうしてイエスの弟子なのか」、その二つ目、それは、偉大な神の御名を「アッバ父よ=お父ちゃん」と呼べる立場にあるからです。

小さい子どもは、いじめられて泣き出すと「お父ちゃん」、と叫びます。「お父ちゃん」に言い付けてやる、と逃げていきます。私たちにとって、究極的にその「お父ちゃん」は、天地万物の創り主であり、歴史の支配者である、生ける真の神なのです。

さらに、主イエスは、ご自身の弟子たちについて非常に重要なことを言われます。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。(12節)」

 ここでは、弟子たちが主イエスによって守られたので、「だれも滅びませんでした」、という事実が述べられる一方で「滅びの子のほかは」、とありますように、その例外とされた者がいたことも示唆されています。この「滅びの子」、というのはいうまでもなく12弟子の一人ユダです。ユダは、主イエスの弟子でありながら、主イエスを裏切り、その後自らその命を絶ってしまいました。そのユダが、ここでは、「滅びの子」、と呼ばれています。つまり、ユダもまた、神のご計画によって、最初から「滅び」に定められていた、という意味です。「不公平だ」、と不平をいう方は多くおられます。人間がこの世の中心であるのならその通りでありましょう。しかし、この世の中心は神であって人間ではありません。私たち人類がこの世を創ったのではなくて、神がこの世を創り、そして私たちも神に造られた被造物の一つに過ぎないのです。創られたものが、創ったものに対して、どうして文句が言えるでしょうか。

 これは、パウロがローマ書で非常に丁寧に論じています(ローマ書9:18〜23が重要です。必ずご参照ください。)。私たちは、不公平だ、と文句を言う立場ではないのです。むしろ、私たちは、滅びることになっていたのにも関わらず、神の憐れみと、その計り知れない神のご計画の中で救いに選ばれたことを感謝しなければならない立場なのです。

その上で、覚えておきたいのは、イエスの弟子であるから、絶対大丈夫だと言うことはない、ということです。しかも12弟子は、主イエスの側近中の側近でした。その中の一人が、道を踏み外して滅んでいったのです。これは、いつの時代も主イエスの弟子として神と教会に仕える私たちキリスト者に警鐘を鳴らします。ユダは、どうして滅んでしまったのか、具体的にそれは、主イエスよりもこの世の富の方に目を向けたからです。マタイ福音書では、銀貨30枚で、主イエスを売った、と記録されています。銀貨30枚、それは当時奴隷の相場でした。主イエスはその値段で取引されたのです。

つまり、主イエスを裏切るのに大枚を叩く必要はないということです。それは一大決心ではないのです。むしろ、とるに足らないこの世の富でも主イエスを裏切ることはできる、ということです。主イエスよりもこの世の富が大切になった時、私たちは必ず主イエスから遠ざかっていくのです。

イエスの弟子という立場、あるいはキリスト者という立場、それが私たちを救うのではありません。その立場が機能していないのなら、それは単なる肩書きに過ぎないのです。

「わたしは彼らによって栄光を受けました(10節)、繰り返すようですが、この「栄光を受けました」、の部分の動詞の時制は完了形です。つまり、主イエスの栄光の序章である十字架さえまだ終わる前から、主イエスは、「わたしは彼らによって栄光を受けました」、と言われて憚らないわけです。

そうである以上、この「彼ら」は、主イエスのすべての弟子たちであり、その中に私たちも含まれるのです。つまり、主イエスは、その十字架の前夜、私たちキリスト者が、必ずご自身の栄光を現してくれると信じて疑わないのです。つまり、主イエスは私たちを信じて十字架についてくださったということです。それゆえに「どうしてイエスの弟子なのか」それは主イエスが私たちを信じてくださったからです。心打たれないでしょうか。心震えないでしょうか。私たちは、貧しく、弱く、おまけに恩知らずで、とても期待されるようなものではありません。しかし、主イエスは、その信じる価値のないものを信じて十字架で死んでくださったのです。さらに、主イエスは、「栄光を受けました」、と完了形で言ってくださっているのです。今も、私たちの貧しく、とるに足らない働きを主イエスは喜んで受け入れてくださっている、ということです。それが最も鮮やかに実現しているのが、今おささげしているこの礼拝です。私たちのつまらない一つひとつの働きが、主イエスに受け入れられて、まるで芳しい香りのように、この場所から天に立ち昇っているのです。

私たち日本改革派教会の信仰告白でありますウェストミンスター信仰規準の小教理問答書の問1は、「人間の主要な目的はなんですか」、と問い、次のように回答します。「人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです。」、「どうしてイエスの弟子なのか」それは、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶからです。つまり、神を礼拝することが、人生の中心になっている、だから私たちはイエスの弟子なのです。