聖霊の時代
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 16章4節b~11節
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聖書の言葉
4節b 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
5節 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
6節 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
7節 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
8節 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
9節 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
10節 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
11節 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
ヨハネによる福音書 16章4節b~11節
メッセージ
説教の要約
「聖霊の時代」ヨハネ福音書16:4b〜11
本日聖書箇所では、ペンテコステ以降に始まる福音宣教の時代の、その聖霊なる神様のお働きが「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。(8節)」、と端的に示されます。これは、決して神秘的なことではなくて、聖霊なる神様が私たちを用いて、福音宣教を通して、この世に宣言されることに他なりません(マルコ13:9〜11参照)。
その一つ目として、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと(9節)」、と主イエスは言われます。何度か確認してまいりましたが、ここで、「彼らがわたしを信じないこと」、とあります「わたしを」、という表現で使われています前置詞は、このヨハネ福音書におきまして、キリストとの結合を示す大切な言葉で、ニュアンスとしては、キリストの中に入ってしまう、つまりキリストとの結合です、
これは、福音の頂点と名高いローマ書8章の冒頭で謳われているキリストとの結合と同じ意味合いです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(ローマ書8:1)」、この部分です。ここでは「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」、と言われています。つまり、逆に言えば、キリスト・イエスに結ばれていない者は、罪に定められるしかないのです。ですから、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」、とは、まさにこの通りなのです。主イエスを信じない、つまりキリストに結合されていないゆえに、救いと無関係なのですから、その罪が明らかにされ、断罪されてしまう以外ないのです。
私たちは、数えきれない罪を抱えて生きています。それは消えることはありません。実際、過去犯した罪が記憶に蘇り、苛まれることも多々あります。しかし、キリストを信じて、キリストに結び付けられている以上、私たちが記憶していようがいまいが、客観的には全ての罪が赦され、全ての罪から解放されているのです。私たちは悔い改めて主イエスを信じれば、過去犯した罪に苦しむ必要は全くないのです。罪からの解放は、主イエスに結び付けられてこの生涯において常に実現しているのです。
さて、次が「義について」です。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること(10節)」、この「義について」、の「義」という言葉は、私たちの生活においてはおそらく使わないでしょう。実際の生活の中で言い換えれば、正しさ、という意味に近いのですが、それが流動的な正しさではない、ということが決定的に大切です。聖書的に義というのは、確定した正しさであり、覆ることのない無罪宣告を指す言葉なのです。
では、どうして、その義というのは、主イエスが、父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなることなのか、この部分は難解ですが、それは、このヨハネ福音書の独特の言い回しにその原因があります。「わたしが父のもとに行き」、とあります、この父のもとに行く、という表現は、主イエスの復活を示す意味があるのです。このヨハネ福音書で、主イエスご自身が「わたしは復活であり、命である(11:25)」、と宣言していますが、実は、この「復活」という言葉が、主イエスに用いられることはむしろ稀で、その代わりに、「父のもとに行く」、とか、「父のもとに帰る」、という表現で、ご自身の復活と昇天という栄光の状態を説明しておられるのです。これがヨハネ福音書の特徴でもあるのです。ですから、この節の「義についてとは」、主イエスの復活と昇天、そして天の御父の右に着座される栄光の状態全体を含めてこのように言われているのです。
この世は、主イエスを断罪し、犯罪人の一人として十字架につけましたが、神はその十字架の主イエスが正しかったことの証明として、主イエスを復活させられたのです。キリストの復活というのは、主イエスが義であったことの証なのです。
これも使徒パウロを通して聖書がはっきりと語っています。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(ローマ書4:24)」、この通りです。ここには、主イエスの復活が、私たちの義の根拠であることが、明確に記されています。
ここで特に覚えておきたいのは、聖書は曖昧な言葉を使わないということです。ここにも神の言葉の権威があります。ですから、キリスト教信仰も曖昧なものであってはなりません。私たちは、神の言葉によってはっきりと罪の赦しと永遠の命が約束されているのです。そうである以上、そのレスポンスとして、確かな信仰に立つことが許されているし、そうでなければならないのです。私たちの罪の赦しと永遠の命は、私たちの方にその根拠があるのではなくて、全てが全能者であり、変わることのない神の言葉によって確定されているのです。
最後は、「裁きについて」です。「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。(11節)」、これも主イエスキリストの十字架が根拠になって語られています。
この世の支配者は主イエスを裁き、断罪しました。それが十字架です。しかし、実は十字架によって断罪されたのは、「この世の支配者」であった、ということなのです。その場合「この世の支配者」というのは究極的にはサタンです。主イエスに十字架刑を宣告したポンテオピラトであれ、ユダヤの祭司長や長老たちであれ、結局はそのサタンの手先、あるいは道具に過ぎません。
サタンの目的は、人間の滅びです。サタンは狡猾で、神が全能であり、永遠の存在であることは百も承知でした。それで、どうせ神にはかなわないのだから、一人でも多くの人間を永遠の滅びである、地獄へと道連れにすることがサタンの目的になったわけです。
サタンが、その手先を用いて、神の御子を十字架につけて殺したのはその目的達成のためです。それは、地上で救いの業を開始しされ、福音を語っていた主イエスを無力化させることで、人間から救いを奪うという狙いによるものでした。ところが、このサタンの目論みは、ものの見事に打ち砕かれ、むしろ罪人の救いに用いられてしまったのです。その主イエスの十字架が、慌ただしい数の人間の罪を帳消しにしただけでなく、主イエスの復活によって、永遠の滅びに向かう多くの罪人に永遠の命が与えられた、という驚くべき逆転が起こってしまったからです。狡猾なサタンも神の知恵には遥かに及ばないどころか、その悪知恵すら用いられて罪人の救いが実現したわけです。サタンさえ見抜けなかった神の御子の十字架が、そのままサタンを断罪し、その敗北を確定させたのです。
そうである以上、後は主の再臨の日の完成を待ち望むだけなのです。
ですから、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる(7節)」、これはこのサタンの敗北と聖霊の時代を予告する非常に含みを持たせた言葉なのです。
それゆえにこの聖霊の時代は、いつ主イエスが再臨されてもおかしくない終わりの時代でもあります。
この終わりの日の状況については、ペトロが非常に鋭い言葉を残しています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。(Ⅱペトロ3:8〜10)」、この通り、私たちと全能者である神の時間軸は全く違うのです(詩編90編参照)。私たちは時間に支配されていますが、神はその時間を支配しておられる、まさにここには天地の開きがあるのです。
ですから、よくありがちな時間的に終わりの日がいつだ、という類の議論は全く虚しいのです。
この世の終わりに向けて大切なのは、「いつだ」、ではなくて、「何をするか」だからです。そして、それは「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」、この神の憐れみに縋って福音宣教を続けることで、聖霊の時代のその終わりの日々の時の中心に、常にこの神の憐れみと忍耐があります。
私たちの大切な家族や友人が、何年も信仰を持ってくれない、しかし、それは、神が忍耐してくださっている何よりの証ではないでしょうか。そうである以上、必ず救われなければならないのです。
これは私たちの伝道に希望を与えるのではないでしょうか。彼らが救われるために、この世はまだ終わらないのです。しかも、忍耐しておられる神が、同時に信仰を与えてくださる神であるのです。