2025年06月15日「告別説教の目的」
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告別説教の目的
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- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 16章1節~4節a
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聖書の言葉
1節 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。
2節 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。
3節 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
4節a しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
ヨハネによる福音書 16章1節~4節a
メッセージ
説教の要約
「告別説教の目的」ヨハネ福音書16:1~4b
本日から、ヨハネ福音書講解は、16章に入ります。
まず主イエスは、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。(1節)」、と言われます。この、「これらのこと」、と言いますのは、今まで語られてきた主イエスの説教全体を指すと言う理解も出来ましょう。しかし、より直接的に申し上げれば、15章の終わりの方で主イエスがなされてきた迫害の予告を指している、と申し上げてよろしいでしょう。
十字架の主イエスが復活され、昇天された後、ペンテコステの出来事によって、福音宣教の時代が幕を開けました。同時に、迫害の時代も始まったのです。
この迫害の時代に立たされた時の弟子たちへの勧告が重要です。「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。(4節)」、このように、主イエスは言われたからです。
この、「その時」、というのは、キリスト者の迫害が正当化される時代です。ですから、直接的には、生まれたばかりのキリストの教会が、ユダヤ人たちから迫害を受けた時代でありますが、実は、この「その時」の部分は、正確に訳しますと、「それらの時」です。つまり、これは、それ以降のあらゆる時代、公的にキリスト教会が迫害され、キリスト者が殺された全ての時代を指す、と申し上げてよろしいでしょう。その通り、ユダヤ人の迫害の次は、ローマ帝国の迫害が待っていました。
実は、教会の歴史の中で、迫害と無関係であった時代は、教会が世俗的な権力を手中に収めて堕落して、仕舞いには、免罪符まで売り始めたあの中世のカトリック教会の時代以外は、ほとんどないのです。教会が世俗化しない限り、迫害にさらされる、これは歴史の中で証明されている事実なのです。
では、その迫害の時代に向かうキリスト者の姿勢とは何であるか、それが、「わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」、この主イエスの言葉に立つことなのです。迫害に晒された時に、力になるのは、他ならぬ主イエスご自身が語ってきたという事実を思い出すことである。当然主イエスは、天におられますので、これは聖霊のお働きになります。
つまり、これは、主イエスが既に語られた、「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(14:25、26)」、この主イエスの約束をそのまま要約したものなのです。これが迫害の時代に抗うために主イエスが約束してくださった聖霊のお働きであり、導きなのです。
本日は、「告別説教の目的」、という説教題が与えられました。主イエスが、この告別説教を語られてきたその目的が、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」、と明確に記されて、その具体的なアプローチがなされているからです。主イエスは、これから十字架に向かわれ、今まで続けてきたこの地上での弟子たちとの生活に終止符を打たれることになります。これからは、主イエスが目に見えない時代、しかし、その代わりに聖霊なる神様が導いてくださる時代が始まる、その時代のプロローグがこの告別説教なのです。この視野に立つ時、13節の途中から始まり、17章の終わりまで続く、この主イエスの告別説教と祈りは、福音宣教の時代のプロローグなのです。ですから、この主イエスの最後の説教は、世の終わりまで続く、福音宣教の時代を貫いて、これ以上ない響きを持っています。
先述の通り、教会の歴史の中で、迫害と無関係に教会が福音を宣教した時代は、教会が世俗化して堕落した時代以外は、ほとんどありません。ですから、目に見えて迫害のない今の時代の私たちのこの国の福音宣教の環境は、むしろかつて、教会が経験したことがない不気味な姿を私たちの前に現しているように思えてならないのです。私たちの国の伝道不振というのは、戦いを知らない教会の生ぬるさにもその原因があるのではないでしょうか。聖書の世界において、あるいは、約2000年のキリスト教会の歴史におきまして、福音の宣教は、迫害にさらされた現実の中で信仰の戦いを続けた時に最も躍動してきたからです。生きるか死ぬかという時の狭間の中で、十字架の言葉は、最もこの世界に響き、最もその輝きを放ったのです。とりわけ、私たちの改革派教会が所属するプロテスタント陣営は、あの堕落した中世カトリックに対する宗教改革という信仰の激しい戦いによって生み出された教会です。そもそも、抗議する、抵抗する、という信仰の戦いを示す意味からプロテスタントという名前が付けられました。ですから、戦いのない、さらに言えば、戦いを知らないプロテスタント教会というのは、実は言葉の矛盾なのです。プロテスタント教会、しかもその中にあって、最も御言葉によって改革され続ける私たちの改革派教会は、常に信仰の戦いの中に生かされているはずです。
では、私たちは信仰の戦いにあるでしょうか。先週のペンテコステ主日の午後の懇談会のレジュメに「信仰の知識化」、という言葉が記されていました。これは、現在の私たち日本キリスト改革派教会の弱さを象徴する鋭い指摘である、と感じました。私たちは、信仰告白の最高峰であるウェストミンスター信仰基準を持っています。しかし、それは与えられたものであって、私たちが信仰の戦いを通して勝ち取ったものではありません。宗教改革の100年以上に及ぶ信仰の戦いで生み出されたこれ以上ない信仰告白を、その戦いを知らない私たちが与えられている、だから信仰の知識化という状況が起こるのではないでしょうか。
ではどうすればいいのか、それは、日々御言葉に生かされることです。教会の歴史の中で、信仰者が生かされたその生き方に続くことです。ウェストミンスター信仰基準であれ、ハイデルベルク信仰問答書であれ、それは御言葉に対する信仰者の、そして教会のレスポンスであり、それ以上ではありません。ですから、何よりも御言葉に生かされて初めて、それらは意味を持つのです。御言葉を疎かにして、ウェストミンスター信仰基準の看板を掲げても全く意味はありません。むしろ、御言葉に立って、さらに優れた信仰告白の言葉を生み出していこうというのが、私たちの教派が創立されたときのアイデンティティーであったはずです。
迫害のないこの特殊な時代は、実は、その特殊性に私たちをつまずかせる罠が張り巡らされているように思うのです。それは世俗化です。迫害がないと教会は世俗化するのです。いつの間にか、信仰者の生活の中で、この世と教会との関係が曖昧になる、さらに進めば、教会がこの世の基準で運営されたり、この世の物差しで批判されるようになる。それを見破り、その世俗化に抗うための武器が御言葉なのです。
「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」、確実に、今やその時は来ています。繰り返すようですが、それは教会史の中では非常に特殊な時代、しかし、世俗化という最も恐ろしいつまずきの時代であります。それが終わりの時代なのです。
主イエスは実にこの時代を鋭く指摘しています。「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。(ルカ18:8)」、これは終末に近づいたこの世の様相でありますが、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」、とこのように、主イエスは言われています。非常に厳しい言葉でありますが、主イエスが言われた以上、これは必ず実現します。いいえ、既に実現し始めています。「その時が来たとき」、というのは、この「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」、と主イエスが言われたその時代と明らかにリンクします。それが、私たちの生かされているこの福音宣教の時代ではないでしょうか。
ですから、今こそ、主イエスが言われたことを、私たちは、常に思い出さなければなりません。それは、常に御言葉にたつことです。 そして、今まで主イエスに与えられてきた恵を一つ一つ数えることです。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない(詩103:2)」、この御言葉に、私たちの生きてきた道を、ここから展望する道を、丸ごとあずけることであります。