2025年06月01日「聖霊のキリスト証言」

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聖霊のキリスト証言

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章22節~27節

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22節 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
23節 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
24節 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
25節 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
26節 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
27節 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
ヨハネによる福音書 15章22節~27節

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説教の要点

「聖霊のキリスト証言」ヨハネ15:22〜27

 本日の御言葉でヨハネ福音書の15章が終わります。このヨハネ福音書の15章は、ぶどうの木の譬え話で始まりました。そのぶどうの木の譬え話の中で、ぶどうの木は、主イエスの身体である教会の比喩となっていました。主イエスというぶどうの木に私たちは、枝として分かち難く結合していて、その私たちに求められていること、それは互いに愛し合うことでありました。先週の御言葉からは、その互いに愛し合う群れであるキリストの教会と、この世との関係に視点が向けられるようになりました。本日の聖書箇所は、その続き、と申し上げてよろしいでしょう。

ここで、主イエスは、「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。(25節)」、と詩編の御言葉を引用して、ユダヤ人がいつの時代も、愚直に神に従おうとする信仰者に対して、迫害を続けてきた事実を暴きました。その上で、主イエスは、ご自身が彼らによって十字架で殺された後の弟子たちに対する導きを明確にします。

 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。(26節)」

 ここで、再度「弁護者」、という言葉が出てきます。これは、ギリシア語では、以前詳しく学びましたように、パラクレートス(παράκλητος)という字を書きまして、聖霊なる神様に他なりません。「父のもとから出る真理の霊」、と言い換えられています通りです。

この言葉が最初に出てきた14:16では、このパラクレートス(παράκλητος)であります聖霊なる神様が、永遠に私たちと共にいてくださることが約束されていました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(14:16)」、この通りです。すなわち、主イエスが天に昇られて、目には見えなくなった時、その主イエスの代わりに弟子たちを導かれる方、それが「弁護者」である聖霊なる神様である、ということです。しかも、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」、と主イエスが約束してくださる以上、それは、世の終わりまで決して途絶えることのない導きであるわけです。

 ですから、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」、これがペンテコステ以降の福音宣教の時代全体を貫く、聖霊のお働きなのです。

 今、主イエスは、天におられて目には見えません。しかし、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」、と約束されていますように、聖霊なる神のキリスト証言によって、常に主イエスは私たちと共におられるのです。まるで弟子たちと地上を歩まれたように、聖霊と御言葉によって、主イエスはいつも私たちと共に歩んでくださる、これはそういう意味です。ペンテコステの出来事によって信徒一人一人の上聖霊が与えられました。その聖霊なる神によって主が共におられる、そのインマヌエルが実現しているのです。しかも世の終わりまで永遠に。

 しかし、それで終わりではないのです。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」、と続けて主イエスが言われるところが大切なのです。聖霊によって主イエスが共におられることと、信徒が福音宣教に勤しむことは、常に一体であるということだからです。聖霊に満たされて、「めでたしめでたし」、で終わることはあり得ないのです。

ですから、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」、と聖霊のお働きが約束され、それに連動するように、「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」、と続くわけです。大切なのは、絶対にこれを切り離してはならない、ということなのです。聖霊なる神の証とは無関係に、信徒が証をすることはあり得ない、ということです。すなわち、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」、というこの聖霊のキリスト証言と、「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」、というこの弟子たちのキリスト証言は一体であるのです。

 先週も確認しましたように、地上で語られた主イエスの言葉と、福音宣教に勤しむ弟子たちの言葉が聖書の中でイコールとされるのは、「その方がわたしについて証しをなさるはずである」、この聖霊のお働きが背後にあるからなのです。

 これは、ペンテコステのすぐ後の福音宣教において使徒ペテロが、実に見事に証言しています。

 「ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。(使徒言行録5:29〜32)」、この通りです。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」、この主イエスの言葉がここで早くも実現しています。このペテロの証の内容の隙のなさに注目していただきたいのです。ここでは、主イエスの十字架と復活と昇天、そして悔い改めと罪の赦しといった福音宣教の要素が見事に謳われたうえで、最後に「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」、とこのように、使徒たちと聖霊の証言の一体性が宣言されています。

実にしびれるような証言ではありませんか。しかし、これを語ったペテロは、主イエスを3度知らないと裏切ってから2ヶ月も経っていません。あの臆病な男が、今や他の使徒たちを引き連れて、福音宣教の最前線に立ってキリスト証言をしている、これが聖霊のキリスト証言なのです。

ですから、私たちが臆病であるとか、弱い者、貧しい者である、あるいは無学である、それは問題ではないのです。ペテロは、そもそも漁師で、都のファリサイ派の人々から見れば無学な男でした。しかも彼は臆病だった。その男がキリスト証言に用いられる、これが聖霊のキリスト証言なのです。

 実は、この「証しする」、という字は、「殉教する」、という意味を持ちます。キリスト者の証は、そのまま殉教を意味する事態であった、この歴史的な経緯が、この言葉に証と殉教という両方の意味を与えたのでしょう。聖霊のキリスト証言と信徒のキリスト証言の絆は死を持っても切り離すことができなかった、これは教会史の中で実に見事に証明されたのです。

その契機となったペンテコステの日、聖霊に満たされた信徒たちは、彼らの意志を超えて、キリスト証言をせざるを得なかったのです。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:1〜4)、ここには弁のたつ者もいたでしょう。逆に寡黙な者もいたでしょう。学がある者もいれば、ない者もいたでしょう。しかし、聖霊に満たされた以上、彼らは、一同なのです。そのような人間的な能力とか性質のようなものとは無関係に、全てのものがキリスト証言を始めたのです。彼らが望もうが、望むまいが、“霊”が語らせるままに、福音を語るようにされた。これが、聖霊のキリスト証言です。私たちは、肉の目で人間を見るのではなく、信仰の目でその背後で働いておられる聖霊なる神様を見なければなりません。

ペトロは、逆さ十字架で殉教したという伝説があります。その死の直前に、彼は、全てのキリスト者に、キリスト証言の備えをすることの大切さを訴えています。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(Ⅰペトロ3:15)」、主イエスを3度知らないと裏切って許された男が、生涯実行し続けたキリスト証言がここにあります。聖霊と無関係に生きていて、キリスト証言ができるはずはないのです。キリスト証言は、にわかに、あるいは、闇雲にできるのではなくて、日々、御言葉に親しみ、聖霊なる神様に導かれる、この備えが必要なのです。この週は、この御言葉を思い巡らして、聖霊の導きを祈り、次週のペンテコステ礼拝に備えたい、と願います。