2025年05月25日「主イエスに選ばれたゆえに」
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主イエスに選ばれたゆえに
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 15章18節~21節
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聖書の言葉
18節 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
19節 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
20節 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
21節 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
ヨハネによる福音書 15章18節~21節
メッセージ
「主イエスに選ばれたゆえに」ヨハネ15:18〜21
先週までで15章の最初から始まったぶどうの木の譬え話が終わりました。それでも、本日の箇所はぶどうの木の譬え話と無関係に語られているわけではありません。むしろその連続性の中で、ここから主イエスは視点を変えて説教を続けておられる、と申し上げてよろしいでしょう。
先週までの箇所では教会の内部、あるいは信仰者同士の交わりに視点が当てられていたのに対して、ここからは教会の外部、キリスト教信仰を持たない人との関係に、視点が向けられているのです。そして、それは決して穏やかなものではなくて、迫害の予告になっているわけです。実際、教会はその最初期から常にこの世から憎まれ、迫害を受けることは必然的であったのです。
ですから、その現実の中で、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい(18節)、というこの主イエスの言葉にはただならぬ説得力があったはずです。キリスト者は主イエスとの関係で、この世に憎まれ、迫害を受けるからです。つまり、ここで主イエスが言われていることの真意は、私たちキリスト者がこの世から憎まれ、あるいは迫害されるのであれば、その責任は私たち自身ではなくて、主イエスにある、ということなのです。イエス様のせいなのです。キリスト者は主イエスのために憎まれ迫害されてきたのです(Ⅱテモテ3:12参照)。
これが重要で、さらにその責任の所在が明らかにされます。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。(9節)」、この主イエスの選び、ここにキリスト者が世に憎まれ迫害される原因があるのです。先週も確認しましたように、私たちが主イエスの友である、ということは、私たちの側に根拠があるのではなくて、ただひたすら主イエスの選びにその根拠がございます。私たちには主イエスの友として選ばれる資格もなければ、原因のようなものもございません。ただ、主イエスの一方的な選びによって私たちは主イエスの友とされたのです。逆に言えば、私たちは主イエスから選ばれたばっかりにこの世から憎まれ迫害される立場に立たされた、ということにもなります。つまりいずれにしましても不可抗力なのです。
これは主イエスがさらに明確にされます。「しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。(21節)」
つまり、主イエスの名のゆえに迫害される、それがここで予告されているわけです。
これは、ペンテコステのすぐ後の記事で実際記録されています。「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。(使徒言行録5:41、42)」、ここでは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」、とまで記されています。つまり、迫害される、ということが、早くもここでは名誉なこととして認識されているのです。見逃してはならないのは、「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち」、と記されているところです。この鞭打ちの刑というのは、バラ線のような鞭で、40に一つ足りない、すなわち39回叩かれるという拷問で、二度と「イエスの名によって話してはならない」、そのための見せしめのような拘束力を持っていたはずです。ところが、使徒たちは、「イエスの名によって話してはならない」、と命じられたのにも関わらず、イエスの名によって話すことをやめなかったのです。しかも、毎日一番目立つ神殿の境内で堂々と。
使徒たちは、主イエスの名のために憎まれ迫害されたのです。しかし、彼らは、それを喜んだのです。イエスに選ばれたばっかりに痛い目に遭った、それが彼らの勲章であったのです。
これはパウロがフィリピの信徒たちに語っています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。(フィリピ1:29、30)」、キリストへの信仰が与えられたのは恵です。恵というのは、ただでいただけるから恵なのです。驚くべきは、ここでは苦しむことにも同じ扱いがなされていることなのです。苦しみも恵とするのであれば、それは100パーセントキリストの側にその原因があるのです。つまりこれもイエス様のせいなのです。これは、歴史の中で実際迫害にさらされてきた教会にとっては決定的な約束であり、これ以上ない慰めであったはずです。教会の歴史の中で、迫害によって殉教した信仰者は非常に多いからです。教会史には、殉教者の歴史と言う側面がございます。そして人の死の背後には、その家族がいます、友人もいます。一家の大黒柱が、この世を去った時の悲しみと失望感、そして怒りはいかほどのものであったでしょうか。あるいは、愛情を注いで成人した我が子が殉教した時の親の気持ちなど察しもつきません。しかし、その責任は、殉教者にあるのではなくて、全て主イエスにあるのです。信仰を守って殉教した以上、彼らは、イエス様のせいで殺されたのです。そうである以上、必ず主イエスが責任をとってくださる、ここにこそ決して破壊できない真の慰めがあるのではないでしょうか。最も大切な人を失った時、私たちはその確固たる理由を求めるからです。どうして死んでしまったのか、と苦しみ、嘆き、敵を憎んでも何の解決にもなりません。しかし、その理由が主イエスにある以上、その苦しみと悲しみ、そして憎しみからも解放されないでしょうか。敵を憎んでも死者が戻ってくることはありませんが、主イエスの責任であれば、死んでも生きている、この死者の復活が約束されているからです。憎しみと信仰との間には天と地の開きがあるのです。
改革派教会共通の信仰告白でありますハイデルベルク信仰問題の第一問は、私たち信仰者が生きるにも死ぬにも、この慰めが中心にあることを謳います。(週報に掲載しました参照ください。)
このハイデルベルク信仰問答書はその問1で 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」と問われ、その解答としてまず「、わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」、と謳い、「この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。」、と続いていきます。これが「ただ一つの慰め」である、と言うのです。
これは16世紀の宗教改革の時代に作成された信仰問答書です。宗教改革の時代も多くのキリスト者が殉教し、全ての信仰者が常に死と隣り合わせに信仰の戦いを続けていました。その現実の中で、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」、この信仰告白が生み出されていった事実は重要です。「生きるにも死ぬにもわたしの真実な救い主イエス・キリストのものである」、ここに私たちキリスト者の究極的な慰めがあることが信仰告白されたからです。私たちも改革派教会の信徒である以上、この「ただ一つの慰め」に立ちたいのです。
私たちの生かされているこの時代は、我が国において、あからさまにキリスト者が迫害されることはほぼありません。しかし、迫害が全くないわけではありません。むしろ、この世はその手口を変えて、巧妙に私たちを信仰から脱落させようとする恐ろしい時代になっています。
初期の教会の時代キリスト者は剣にさらされてその信仰の戦いを続けました。宗教改革の時代からは銃口が向けられました。現代は、さらに恐ろしい兵器が私たちに向けられています。AIのようなものでさえも、私たちの信仰を妨げる恐ろしい刃となるのでありましょう。しかし、いつの時代も、私たちの信仰の戦いのために与えられている力は、神の言葉と祈り、この二つだけです。それは剣に勝ち、銃口にも怯みことなく、これから先どのような脅威に晒されてもそれらを簡単に打ち負かしてしまう神の力です。私たちの信仰の戦いは私たちの戦いではありません。これは主イエスご自身の戦いであり、主イエスに選ばれたゆえに私たちは参戦するのです。そうである以上、どんなに不利な状況に見える時でさえも勝利は約束されているはずです。主イエスはすでに勝っておられるからです。
私たちは本日「強く雄々しくあれ」、と招きの詞でこの礼拝に招かれました。
「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア記1:9)」