先行する恵
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- 説教
- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 15章13節~17節
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聖書の言葉
13節 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14節 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15節 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16節 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである
17節 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
ヨハネによる福音書 15章13節~17節
メッセージ
説教の要点
「先行する恵」ヨハネ15:13〜17
15章の最初から始まりましたぶどうの木の譬え話が、本日で最終回となります。
ここで主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(13、14節)」、と言われ、その根拠を示されます。それが、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(15節 )」、この御言葉です。
ここでは、友であることが、僕であることと対照的に説明されています。そして、この両者は、主人が行っていることが何であるかを、知っているのか知らないのかによって区別されています。すなわち、僕の方は、ただ機械的に指示通りに与えられた仕事をこなせば良いのであって、それ以上は求められてはいないのです。むしろ事務的な正確さが求められている、それが僕の立場です。この「僕」と言う字は、奴隷とも訳せる言葉で、実際当たり前のように奴隷が存在していたこの時代ですので、文脈によっては、奴隷と訳す場合もあります。
それに対して、友の方は、主人の意向が何であるかが知らされていて、事務的ではなくて心のこもった務めが求められているわけです。これは自由であることの裏返しではないでしょうか。自由には必ず喜怒哀楽が伴うのです。主人である神様の御心が何であるかを知り、その信仰生活の中で、喜び、怒り、悲しむ、その自由な生き方が約束されるのが、友という立場です。さらに具体的に申しあげれば、主イエスと思いを一つにして、主イエスと共に生きる、喜怒哀楽を主イエスと分かち合う、これが友である信仰者の立場なのです。そして、弟子たちが、そして私たちが、何故に主イエスの友であるのか、それが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(16節)」、と示されます。これは、二つの面で非常に大切です。
一つは、私たちが主イエスの友である、ということは、私たちの側に根拠があるのではなく、ただひたすら主イエスの選びにその根拠がある、ということです。私たちには主イエスの友として選ばれる資格もなければ、原因のようなものもございません。ただ、主イエスの一方的な選びによって私たちは主イエスの友とされたのです。これは、私たち罪人が救われる原理と全く同じで、同様に私たちの側には救われる根拠は一つもありません。しかし、主イエスの十字架によって罪から救い出され、永遠の命を無償でいただくことができたのです。
本日は、先行する恵、という説教題が与えられました。私たち信仰者にとって恵は常に先行するのです。それは、この主イエスの選びが先にあるからです。「わたしがあなたがたを選んだ」、ここに私たちの赦しも救いも命も全てかかっているのです。
二つ目は、キリスト者である以上、私たち一人ひとりは誰でも主イエスの友である、ということです。「わたしがあなたがたを選んだ」、と主イエスが言われる以上、主イエスの御心によって、私たちは選ばれ、ぶどうの木である教会の枝とされているわけです。これがこの世の友情とは全く違う点です。
この世におきまして友だちと言うのは、気の合う同士であったり、一緒にいると楽しかったり、性格や趣味が一致したり、とそういう基準で私たちが自由に選ぶわけです。自由なのですから、親友であったのに喧嘩別れして、生涯顔を合わさない、なんてこともあり得るわけです。
しかし、主イエスの友とされた私たちは、それぞれが主イエスにとってはかけがえのない大切な友として選ばれたわけですが、信徒同士の間では、必ずしもこの世的な友情の基準で繋がっているわけではありません。ぶどうの枝が別々に幹から伸びていますように、私たちは一つの枝として主イエス様とは分かち難く繋がっていますが、他の枝とは、幹を通して、すなわち主イエスを通して繋がっているに過ぎません。ですから、同じキリスト者同士でも、いろいろな人がいて、趣味が合わない者も、性格が合わない者もいる、それはむしろ当然なのです。水と油のように相容れない場合もあり得ます。私たちがこの世的な基準で選んだ友ではないからです。だから、この世の友情のように縁を切って「はいさようなら」、ということもできません。しかし、大切なのは、どのような人でも主イエスにとってはかけがえのない友であることは間違いないということなのです。「わたしがあなたがたを選んだ」、と主イエスが言われる以上、信仰者が教会に繋がっている原因は全て主イエスにあるのです。
主イエスが必要とされるから召された者の集まりが教会であり、不要なものは一人もいないのです。実に私たち一人ひとりの信仰者のために主イエスは十字架で死んでくださったからです。
パウロは、このことについて実に見事に、ローマの信徒たちに勧告しています。
「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。(ローマ書14:15)」、この通りです。特に、この時代、この食べ物についての問題は、教会を分裂させるような火種でありました。何を食べるかで裁きあって分断が起こり、信徒同士が仲違いしていたわけです。しかし、相手が何を食べようが、それは問題ではない、それは、「キリストはその兄弟のために死んでくださった」からである、とパウロは言うのです。ぶどうの枝が幹を通して繋がっているように、教会の一人ひとりの信徒もキリストを通して繋がっている、その一つひとつの枝のためにキリストは十字架で死んでくださったのです。この御言葉の論理は強烈です。教会はこのパウロの時代の最初期から現代に至るまで、内輪争いがなかった時代はありません。コリント書であれ、ガラテヤ書であれ、フィリピ書であれ、この教会の内部の争いが契機になって執筆された書簡です。
教会トラブルは、いつの時代も教会を衰退させ、ひどい時には崩壊させる深刻な問題です。しかし、「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」、この御言葉で和解できない教会トラブルであるのなら、それはサタンに主導権を譲った争いです。私たちは主イエス様のお役に立ちたいと願う熱心さから、ついカッとしてしまって、教会の中で諍いを起こす弱い者たちです。しかし、そこに主イエスの十字架が立っていることを思い出して、和解したいのです。私たちは、誰も先行する十字架の恵の中で生かされている、という点では一致しているからです。
その上で、今一度、「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」、この御言葉に立って、本日の最後の御言葉に目を向けていただきたいのです。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。(17節)」、如何でしょうか。「キリストはその兄弟のために死んでくださった」、この御言葉に立って、改めて、「互いに愛し合いなさい」、この主イエスの言葉に聞くときに、心が震えないでしょうか、心砕かれないでしょうか。主イエスは、ご自身が十字架で死んでまで愛された一人ひとりのキリスト者に、「互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。」、と言われているからです。
主イエスが「互いに愛し合いなさい」、と言ってこのぶどうの木の譬え話を終える時、そこには十字架の血が流れているのです。主イエスが十字架で死んでくださったのは、私たちの罪が帳消しにされて自由に生きるためです。そして途中で触れましたように、自由に生きるとは、キリストと共に生きること、キリストと喜怒哀楽を分かち合って生きることです。それはそのまま私たちが先行する恵に心砕かれて、互いに愛し合うことであり、信仰希望愛を分かち合うことであります。
昨日、一斉メールで皆様に配信した高島平の地で工事が進んでいます新しい会堂の写真は、ちょうど私が、この説教原稿を書いている最中に、執事さんがメールに添付して、配信してくださったものです。しばし、説教原稿の手を休めて黙想の時が与えられ、今天に向かって力強く建てられています新会堂のその姿にぶどうの木の幻を見ました。主イエスというぶどうの幹に私たち一人ひとりが、枝として繋がれている、その幻です。建物としてのぶどうの木の完成は近づいています。しかし、大切なのは、完成したその建物の中で、キリストを中心とした私たちの信徒の交わりというぶどうの木が成長し実を結び、その完成に向けて実現していくことです。 今日、このぶどうの木の譬え話の最後に確認いたしましょう。私たちのぶどうの木は、どんな時も先行する主イエスの十字架の恵の上に建てられていますことを。私たちのぶどうの木は、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」、このイエスキリストの御言葉の上に建てられていますことを。