主イエスの愛にとどまる
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 15章9節~12節
9節 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10節 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11節 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12節 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ヨハネによる福音書 15章9節~12節
説教の要約
「主イエスの愛にとどまる」ヨハネ15:9〜12
私たちは、今このヨハネ福音書のぶどうの木の譬え話を丁寧に読み進めております。それは、毎回申し上げていますように、このぶどうの木の譬え話で示される真理が非常に深いからです。
先週までの部分では、ぶどうの木とその枝との関係によって、私たちが主イエスに結合されているその重要性が教えられました。実に、このぶどうの木の喩え話の焦点は、この主イエスと私たちとの結合なのです。その上で、本日の箇所からは、このぶどうの木の喩えが語られた目的が説明されている、と申し上げてよろしいでしょう。今まで語られてきたぶどうの木の譬え話が、ここから、これを聞いている弟子たちに適用されている、ということです。どうして、この喩えが話されたのか、この喩えによって、弟子たちに、そして私たちに何が求められているのか、それがわからなければ、結局あまり意味がないし、役にも立たないのでありまして、そう言う意味では、実は、このぶどうの木の喩えは、ここからが肝となる、と申し上げてよろしいでしょう。
そして、この喩えが語られた目的を主イエスは真っ先に言われます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(9節)」、すなわち、弟子たちが、そして私たちが、主イエスの愛にとどまるため、これがこの喩えが語られた目的なのです。
では、その主イエスの愛にとどまるのは、具体的にはどういうことなのか、それが続けて示されます。
「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(10節)」、簡潔に申し上げれば、ここでは、主イエスの掟を守ることが、そのまま主イエスの愛にとどまることになる、とこのように言われています。この愛と掟との緊密な関係が聖書的に非常に大切です。愛は掟である、と定義しても差し支えないくらい、掟との接近が著しいのが、聖書が示す愛の特徴なのです。それを象徴するかのように、ここで、主イエスが言われます「わたしの掟」、というのが、このすぐ後で具体的に示されます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(12節)」、この通りです。そして、このぶどうの木の譬え話によって主イエスが弟子たちに最も言われたかったことはこのことです。
実は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」、すでに、主イエスは、この告別説教の途中で、新しい掟として、これを弟子たちに与えておられました(13:34、35を参照)。つまり、この新しい掟がよく理解できるように、ぶどうの木の譬え話が生み出されたわけなのです。それゆえに、主イエスは、この喩えをされた後で、再度、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」、とこの喩えを語られた意味としてこの掟を与えておられるのです(15:17参照)。すなわち、「互いに愛し合いなさい」、これがこのぶどうの木の譬え話を話された動機であり、結論でもあるのです。
しかし、繰り返しになりますが、これが語られたのは、主イエスの十字架の直前で、弟子たちは、この主イエスの説教の意味がよくわかりませんでした。それどころか、この主の晩餐の席上でさえ、彼らは「誰が一番偉いか」などと権力闘争を始める始末でした。その状況で、主イエスが、「互いに愛し合いなさい」、と繰り返し、仕舞いには、譬え話まで持ち込んで、これを弟子たちに理解させようと努められたのであって、この事実は重大です。つまり、「互いに愛し合いなさい」、これは、互いに愛し合うことができない群れに対して求められている主イエスの掟である、ということです。
そもそも、互いに愛し合うことができているのなら、「互いに愛し合いなさい」、と執拗に繰り返す必要など全くありません。笑っている人に向かって笑いなさいとアドバイスする者など見たことがないのと同じです。すなわち、弟子たちには、それほどまでに愛がなかったのです。
しかし、最初にこの掟を与えられた弟子たちの、この愛のない愚かな姿を笑える方がおられるでしょうか。笑える教会が一つでもあるでしょうか。似たり寄ったりではないでしょうか。むしろ最初期から、現代に至るまで、教会は、「誰が一番偉いか」、この愚かな問いと無関係ではないのです。
私たちは、受ける資格のない愛の方は無条件に頂きながら、本来受けなければならない怒りの方は免除されたのにも関わらず愛のない者たちなのです。
愛は掟である、と申し上げておいて矛盾が生じますが、主イエスの十字架の愛は、掟破りの愛ではないでしょうか。神の御子が十字架で殺されるのを許す掟などあるはずがないからです。その掟破りの愛で、私たちは赦されたのです。その愛で赦されておきながら、許すことができない罪人、それが私たちの姿です。しかし、大切なのは、私たちが、互いに愛し合うことができない者であることを知りながら、それでも尚、互いに愛し合うことを祈り求め、一歩でも踏み出すことなのです(ハイデルベルク信仰問答書 問114を参照してください。)。
さて、その上で、主イエスは非常に大切なことを言われます。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(11節)」、これが互いに愛し合うことによって約束される結果です。ここでは、「わたしの喜び」、そして、「あなたがたの喜び」、と「喜び」、という言葉が繰り返されるのが大切です。結論から先に申し上げれば、この、「喜び」という字の聖書的な意味は、この地上での喜びとは比較できない、絶対的で永続的な、そしてこれ以上ない圧倒的な喜びです。
この時には主の晩餐に与りながらも、その直後、主イエスを三度知らないと否んで、裏切ってしまったペテロは、十字架と復活の後に悔い改めて立ち帰り、すぐに使徒として福音宣教に勤しむまでになりました。彼は、地上を去る日が近づいた時に、この喜びの何であるかを具体的に記しています。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(Ⅰペトロ4:12、13)」、ここでは、「火のような試練」の只中にあるのにも関わらず、「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」、と言われています。これが、この喜びの特質です。
「火のような試練」さえもこの喜びを弱めることはできない、それどころか、その試練がこの喜びを増幅させてしまう。さらに、「それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」、と言われているのが大切です。この喜びは、終わりの時であるキリストの日にいただけるものであるのにもかかわらず、その先取りが許されている、そういう喜びなのです。終末の出来事が今実現し始めているのです。
私たちも「火のような試練」に襲われることもありましょう。突然大きな病との戦いが始まったり、自分だけならまだ我慢できても、家族や友人の不幸に胸が締め付けられたり、と。しかし、それがどのように大きなものでありましても、キリスト者である以上、喜びが取り去られることはあり得ないのです。必ず、悲しみの向こう側に希望が見える、それが、この喜びなのです。
さらに、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」、ここで主イエスは、この喜びが主イエスご自身と私たちとの間で、共有されるものであることを明確にされています。喜びをイエス様と共有する、こんなに嬉しいことはないのではありませんか。主イエスは私たちの救い主であり、私たちキリスト者は、その主イエス様のお役にたちたいといつも願っているからです。
大きな喜び、飛び上がるような喜びを知った時に、独り占めなどできません。そもそも、独り占めできるような喜びは、実は喜びではないのです。想像を絶する喜びにある時に、大切な人に同じ思いをさせてあげたいと思う、これが本当の喜びのはずです。喜びは家族や大切な人と共有できるから喜びなのです。天国がどのようなものかはわかりません。しかし、私たちの想像を絶する喜びがそこにあることは間違いありません。この喜びが、主イエスの体である私たちの教会の中で今始まっているのです。主イエス様が、「わたしの愛にとどまりなさい」、と言われた目的はここにございます。