2025年04月06日「主イエスの平和」
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主イエスの平和
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 14章27節~31節
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聖書の言葉
27節 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
28節 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
29節 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
30節 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
31節 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
ヨハネによる福音書 14章27節~31節
メッセージ
説教の要点
「主イエスの平和」ヨハネ14:27〜31
本日の御言葉は17章まで続く主イエスの告別説教の第一幕の結論部分、と申し上げてよろしいでしょう。ここで主イエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。(27節)」、と切り出します。先週の箇所では、主イエスの弟子たちが、主イエスが十字架に向かう直前に開かれたこの主の晩餐の席で尚、この世的なメシア像を主イエスに投影して、期待をかけていたことが透けて見えていました。つまり、ここで主イエスは、世が与える平和を求めるその弟子たちに、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」、と言われたわけです。当然弟子たちは、目の前にある主イエスの十字架さえ知りません。
しかし、それを一番よくご存知であったのも主イエスで、その弟子たちの立場を配慮して主イエスは続けられます。「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。(29節)」、この「事が起こったときに」というのは、十字架を指します。ですから、今語られている主イエスのこの説教は、主イエスの十字架の後、その現実に向き合う弟子たちのために語られたものであることがここで明確にされています。
そして、その「事が起こったときに」、という主イエスの言葉が指し示す十字架の暗雲が、俄に立ち込めてまいります。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。(30、31節)」、ここで、主イエスは、「もはや、あなたがたと多くを語るまい」、と事態の緊急性を訴えています。そしてそれは、「世の支配者が来るからである」、という理由です。この「世の支配者」と言われているのは、間接的には、主イエスを十字架につけようと企む祭司長や律法学者、といったユダヤの指導者たち、とも言えましょう。しかし、あえて悪い言い方をすれば彼らは雑魚にすぎないのです。この「世の支配者」、というのは文法的には単数形でありまして、一人の人物を指す言葉です。すなわち「世の支配者」、それは、12弟子の一人ユダを唆し、イエスを十字架に引き渡そうとするその張本人であるサタンです。
その上で、ここで大切なのは、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」、というこの主イエスの言葉です。しかし、いかがでしょうか。「世の支配者」であるサタンは、その手下たちをコントロールして主イエスを十字架に付けたではありませんか。主イエスは鞭打たれ、唾を吐かれ、暴言を浴びせられて罵られた挙句、十字架で殺されました。「彼はわたしをどうすることもできない」、どころか、好き勝手にやったのです。しかし、その事実を百も承知で主イエスが、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」、と言われていることは確かです。つまり、たとえ「世の支配者」が、主イエスにやりたい放題やって、十字架で殺したとしても、それで、「世の支配者」であるサタンが有利になることは全くない、ということです。サタンの目的、それを最も簡潔にいえば、永遠の死であり滅びです。では、主イエスの十字架の死によって、その目的は達成できたでしょうか。いいえ、むしろ逆でした。主イエスが復活されたことによって、主イエスの十字架の死は、人の命に変わったのです。
つまり、サタンが主イエスの側近中の側近であるユダを唆して仕組んだ神の御子の十字架は、これ以上ないブーメランとなって「世の支配者」であるサタンの頭を砕いた、という皮肉な結果になったのです。そして実に、これこそが、人が最初の罪を犯した直後に主なる神が予告していたサタンの敗北です。本日私たちは、この御言葉で礼拝に招かれました。「主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記3:15)」、蛇に扮して人を唆し、罪を犯させたサタンが、時満ちて「女の子孫」としてこの地上に生まれて下さった主イエスの十字架によって、その頭が砕かれる、この御言葉はそれを予告しているわけです。
ですから、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」、これは、人が最初に罪を犯して以来、保留されてきた非常に重たい約束の実現であり、いよいよサタンの敗北が決定的となる極めて重要な局面を指しています。
ここで驚くべきは、サタンほどの知恵を持ってしても神の御子の十字架を完全に見破ることはできなかった、というこの事実なのです。実にこれは聖書を隅々まで読んで感じる最大の謎です。常に賢く振る舞ってきたサタンも、十字架の前にはその愚かさだけを露呈したわけです。サタンにもパンドラの箱があって、結局、彼の狡猾さ(創世記3:1参照)は、神の御前には何の役にも立たなかったということなのです。主の十字架というのはそれほどに奇しき御業であり、これ以上ない奇跡なのです。そして、この主イエスの十字架こそが、主イエスの平和の中心に立っているわけです。
本日は、「主イエスの平和」、という説教題が与えられました。それは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」、この御言葉の約束が、今私たちの時代にこれ以上ないくらいに響いているからです。
この17章まで続く主イエスの説教では、再度結論部分と言えるところが途中にございます。それは16章の最後です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(16:33)」、ここでも「あなたがたがわたしによって平和を得るためである」、と主イエスが共におられる平和が約束されます。そしてここでは「あなたがたには世で苦難がある」、と予告されています。つまり、「しかし、勇気を出しなさい」、と言われるのは、苦難を受けるその時には弟子たちが臆病になってしまうからなのです。本日の御言葉で、主イエスが弟子たちに、「心を騒がせるな。おびえるな」、と言われているのも、今、この時ではなくて、主イエスの十字架の後に、彼らが、心騒がせ、怯えるという事実に直面するからなのです。つまり、主イエスの平和が本当に機能するのは主イエスの復活の後、もっと言えば福音宣教の時代、この私たちの時代なのです。
それを裏付けるかのように、十字架の主イエスは、復活して弟子たちに現れると繰り返すように平和を宣言されます。「その日〜弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ヨハネ20:19)」、そして、「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。」(20:21)」、さらに、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(26節)」、このように、復活の主は弟子たちに現れるなり、「あなたがたに平和があるように」、と繰り返されるのです。しかも、ここで描かれる弟子たちのみっともない姿といったらどうでしょう。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」、あるいは、「戸にはみな鍵がかけてあった」、とこのように家に鍵をかけて震えていたわけです。「心を騒がせるな。おびえるな」、そして「勇気を出しなさい」、と主イエスがあらかじめ言われていた通り、弟子たちは臆病で惨めな姿を晒していたのです。その現実の中で復活の主は、「あなたがたに平和があるように」、と平和を宣言してくださる、これが主イエスの平和であります。この「あなたがたに平和があるように」、というこの表現は、この新共同訳聖書の前の口語訳聖書まで、伝統的に「安かれ」と訳されてきました。私たちの信仰の父母は、いつも信仰の耳を澄まして、「安かれ」、この主イエスの小さき御声を聞き分けてきたのです。
私たちが、この世を恐れ、扉をしめて鍵までかけて震えているその只中にありましてもなお「安かれ」、と復活の主が現れてくださる、これが主イエスの平和です。つまり、それは一方的な平和であり、絶対的な平和であります。その場合、私たちが騒ごうが怯えようが問題ではありません。主イエスの平和、それは私たちの状況がどうであれ、微動だにしない平和だからです。私たちがキリスト者である以上、私たちのこれからの全生涯の中で、どのようなことにぶつかりましても、「安かれ」、この主イエスの言葉がこの耳に響いていることは間違いないのです。ここに、主イエスの平和がございます。