2025年03月30日「聖霊なる神のお働き」

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聖霊なる神のお働き

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章22節~26節

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22節 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
23節 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
24節 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25節 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
26節 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
ヨハネによる福音書 14章22節~26節

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説教の要点

「聖霊なる神のお働き」ヨハネ14:22〜26

 「イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。(22節)」、ここで、12弟子の一人である「イスカリオテでない方のユダ」、という人物が登場いたします。彼は、ルカ福音書ではヤコブの子ユダ、と正確にその名が記録されていますので、ここではなんとも回りくどい紹介の仕方で突如現れるわけです。

ここでユダが言いたいことは、「どうしてもっとこの世に向けて大々的におっしゃらないのですか」、ということです。本音から言いますとユダには焦りがあったのでしょう。エルサレムに入って、弟子たちの主イエスに対するメシアへの期待は高まっていたはずです。「今や、私たちが従ってきたナザレのイエスが、エルサレムから異教徒であるローマ兵を追い出して、王国を建て上げて下さるその時だ」、と誰もが期待していたのでありましょう。片方のユダ(イスカリオテのユダ)は、一歩先に主のために勤しんでいる(と弟子たちは皆誤解していました)。そこで「イスカリオテでない方のユダ」の出番なのです。この遠回しな紹介の仕方の理由はこの辺りにありそうです。「イスカリオテでない方のユダ」、彼もまたイスラエルの12部族の一つを束ねるような身分が与えられることを期待してもいいはずだからです。しかし、主イエスはこの世的なメシアではなく、十字架のメシアでありました。ここで地上的な支配を求めていた弟子たちに、神の国の支配が実現していくプロセスを語られたのです。

それが、「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。(25、26節)」、この主イエスの約束です。

 ここでまず注目したいのは、「しかし」と言う言葉です(26節文頭)。この「しかし」が分岐点になって、時代に大きな変化が現れるからです。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した(25節)」、と主イエスが言われているのは、主イエスが地上におられて弟子たちと共に生活した時でありますが、「しかし」以降は、その主イエスが天に昇られて弟子たちの肉眼では見えなくなった時代であります。そして、その時代に登場するのが、「弁護者」なのです。ここではその弁護者が、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」であることが明らかにされています。

 これは、前もって「別の弁護者」と紹介されていました(16節)。すでに学びました内容と重なりますが、「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」、と言われる主イエス様が第一の弁護者であり、「しかし」、その主イエスが天に昇られた後に、「別の弁護者」である聖霊が、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」、とこのように機能されるのです。ここに神の国の支配であるキリスト教誕生のプロセスがございます。

 主イエスの弟子たちに与えられたキリストの言葉(=「あなたがたが聞いている言葉(24節)」)、それは最初期の教会の福音宣教の現場で、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」、と言うこの聖霊なる神様のお働きによって、改めてその意味が解き明かされ、理解されていったのです。そして、その福音宣教の現場から新約聖書は生み出され、同時にキリストの教会が形成されていったのです。このように神の言葉とキリストの教会とは驚くほどに一体的なのです。それは、「初めに言葉があった(ヨハネ1:1)」と謳われる神の言葉であるイエスキリストこそがキリスト教そのものであられるからです。キリスト教とは、単なる教えや倫理的な規範ではなく、イエスキリストそのお方なのです。このキリストによって救いと永遠の命が与えられる約束、これがキリスト教です。

 その上で、ここで注意しなければならないのは、聖霊なる神様のお働きが「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」、と明確に示されているところなのです。すなわち聖霊なる神様は、主イエスの御心そのままに、弟子たちに神の言葉である聖書(この時点では旧約聖書)を解き明かした、と言うことだからです。キリストと無関係に聖霊なる神が働かれることはあり得ない、そればかりか両者は一体であり、わずかの食い違いさえないのです。これは最初期の教会が旧約聖書を理解したその基準となった非常に重要な事実です。

 復活の主イエスがエマオ途上で弟子たちに現れた時に、この旧約聖書解釈の基準を明確に語っています。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカ24:25〜27)」、この最後の部分で、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」、とあります、これが、主イエスが地上におられた時に、弟子たちに教えられた旧約聖書の読み方です。

 ですから、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」、これは、聖書全体にわたり、主イエスについて書かれていることを説明すること以外ではないのです。

 地上で主イエスが教えられたことをそっくりそのまま聖霊なる神様は教えてくださる、それでも尚、鈍い私たちの心を奮い立たせ、「思い起こさせてくださる」、これが聖霊なる神様のお働きなのです。この聖霊なる神のお働きが旧新両約聖書を書き上げたわけです。

 そして、「イスカリオテでない方のユダ」、彼の本当の出番は、ここから始まったのです。彼もまた、聖霊の導きで、すべてのことを教えられ、主イエスが話されたことを、ことをことごとく思い起こさせられた時、福音宣教の最前線に立って十字架の言葉に命を賭けたのであります。聖書はもはや彼の言動には興味を示しません。それは、ここからのユダの働きは聖霊なる神のお働きに吸収され用いられたからでありましょう。

 私たちも福音宣教に勤しむ中で、もどかしさをしばしば感じるものであります。どうして栄光の主イエスがこの悲惨な状況を許しておられるのか、と理解に苦しむ日々もございます。しかし、その私たちこそ、すぐに消えてなくなる地上的なメシアの支配を求めて、信仰の目が塞がれていないでしょうか。真のメシアは十字架の主であり、十字架の法則に従って、この地上に神の国を築いてくださっています。それが福音宣教の姿です。最も弱いところ、力のないところにこそ、神の力が満ち溢れる。この私たちの集まるようなところに。

今、私たちに必要なことは「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」、これが私たちの中で実現している以上、ここに主イエスがおられる、ここに福音が満ち溢れている、その確信に固く立つことであります。主イエスが地上で教えられたことが、そっくりそのまま聖霊なる神のお働きによって私たちの中で響いているからです。それは旧新両約聖書を書き上げた同じ聖霊なる神の力であります。そうである以上、私たちの本当の出番も今始まっています。