2025年03月22日「主イエスを見る」
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主イエスを見る
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 14章18節~21節
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聖書の言葉
18節 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19節 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
20節 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21節 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
ヨハネによる福音書 14章18節~21節
メッセージ
説教の要点
「主イエスを見る」ヨハネ14:18〜21
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(18節)」
実は、もう5年も前になるのですが、コロナ禍が最も社会全体に不気味な影を落としていた2020年のペンテコステの主日に「みなしごの希望」、という説教題でこの節の御言葉が与えられました。
その説教の中でこの節から確認されたことを要約しますと、「あなたがたをみなしごにはしておかない」、というこの主イエスの約束は、実にみなしごのような集団の中で実現した、ということでした。まさにみなしごのような集団、それが最初期の教会だったのです。しかし、そこから福音宣教は始まり、世界中に十字架の主が宣教された、これが歴史の示す事実です。みなしごたちが、真っ先に福音宣教に用いられたわけです。本日は、どうしてそれが可能であったかをさらに深く確認していきます。
ここで主イエスは、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。(19節)」、と続けます。確かにこれは、第一コリント書で記録されていますように、同時に500人の信徒が、復活の主に見えることで文字通り実現しました(Ⅰコリント15:3〜6参照)。しかし、ここで「あなたがたはわたしを見る」、といわれた主イエスの約束は、この主イエスの復活後の顕現ではなくて、むしろ、主イエスが天に昇られた後のペンテコステ以降の時代を指しています。それは、続けて「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」、とこのように語られ、それが、「あなたがたはわたしを見る」、と言うその根拠とされているからです。
つまり、ここで大切なのは、「あなたがたはわたしを見る」、と言うのは、この肉体の目で目撃するように、第三者的な立場で見る、と言う意味ではないと言うことなのです。第三者ではなくて、当事者として主イエスを目撃する、それが、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」、と主イエスが言われた意味なのです。第三者としてこの肉体の目で主イエスを見る場合、私たちと主イエスとの間には必ず距離があります。主イエスが復活された後、主イエスの弟子たち、あるいは五百人以上の信徒たちが同時に主イエスを目撃したのは、そういう状況であったはずです。
しかし、ここで、「あなたがたはわたしを見る」、と主イエスが言われます時、私たちと主イエスとの間に距離はないのです。それが、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」、と言うその主イエスの目撃の仕方なのです。そしてこれが本日の御言葉でさらに明らかにされていくインマヌエルの真理なのです。
さらに、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。(20節)」、と主イエスは言われます。ここで言われています「かの日」、と言うのは、聖霊が弟子たち一人一人に降ったあのペンテコステの日です。つまりここでは聖霊なる神のお働きによって、天の御父と主イエスと私たちとの間の距離が全くなくなっているのです。それを証明しているのが、ここで「内におり」、と繰り返される言葉です。この言葉は、ギリシア語のニュアンスとしては、「その中に入ってしまう」、「分かち難く結合している」、そう言う意味合いです。これは先々週の御言葉の説教で確認しましたローマ書でパウロが、「キリスト・イエスに結ばれている者(ローマ書8:1)」、と言いますキリストとの結合(ギリシア語でエン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ))と全く同じ状況なのです。つまり両者の間には、たった1ミリさえ距離がない、そう言う関係なのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」、と主イエスが約束してくださった本当の意味はこれです。「みなしごにはしておかない」、と言うよりも、むしろ、みなしごになることができない、それは私たち信仰者が主イエス結び付けられ、その主イエスによって天の父とも結び付けられているからです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」、と主イエスが言われているのも、私たちが主イエスと結合されているから実現する永遠の命の約束なのです。
そしてこれは、すでにこのヨハネ福音書の11章で学びましたあの復活の偉大な真理です。ラザロの死に嘆く彼の姉妹マルタに対して主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる(11:25)」、と約束されました。それは、「わたしを信じる者は」主イエスに結合された者であり、主イエスを信じている以上、私たちの肉体が死んだとしても、主イエスが生きているので、私たちも生きているからです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」、これはキリストに結合された信仰者の慰めであり、喜びであり、力の源であります。そして、これがみなしごたちから福音宣教が始められ、それがこの世に響きわたった本当の理由なのです。
実は、みなしごにしか見えなかった最初のキリスト者たちの群れは、全然みなしごではなかったのです。みなしごと言うのは、死に別れたり、捨てられたりした親のない子を指します。しかし信仰者には、決して死に分かれることがない天の父がおられる。そして永遠の命の君、イエスキリストがおられる。たとえこの世の父母、あるいは友人が私を見捨てても私を裏切っても、イエスキリストは、私を見捨てることはないのです。いいえ、私と主イエスは分かち難く結合しているゆえに、主イエスは私のことを見捨てられないのです。(讃美歌512番2節)
そのような立場で、すなわちインマヌエルに生かされている現実からこの世を見渡します時に、みなしごの概念が見事に逆転いたします。実は、みなしごとは、主イエスと無関係に生きている人々の姿である、とこのようにその視点が180度変化しているのです。神の国の視点では、実はみなしごと言うのは主イエスを信じることができないこの世の人々の姿なのです。永遠の命と無関係に生きている以上、この地上の死が決定的な別れとなるからです。これがみなしごでなくて一体何でしょうか。実に教会は、永遠の命へと導くためのこの世の孤児院として機能しなければならないでしょう。
本日は「主イエスを見る」と言う説教題が与えられました。そしてそれは、第三者としてではなく、当事者として主イエスを見ることである、と言うことを今まで確認してまいりました。私たちが主イエスと結合されているからです。しかし、それでも尚、忘れてはならないのは、十字架の主イエスなのです。主イエスは、ただ一度だけ天の御父とも切り離され、私たち罪人にも見捨てられ、嘲られて十字架で死んでくださったからです。そしてここにこそ愛があるからです。
パウロは、ユダヤ主義者に唆されて律法主義へと様変わりしていくガラテヤの信徒たちに、この十字架の主イエスを目撃した事実を思い起こさせて悔い改めと立ち帰りを警告します。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。(ガラテヤ書3:1)」この通りです。ここでパウロは、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」、と言ってはばかりません。これはパウロの御言葉の解き明かしによって与えられた状況です。すなわち、「主イエスを見る」と言うのは、主イエスに結び付けられて「めでたし、めでたし」、のハッピーエンドで終わりではないのです。さらに大切なのは、これもまた第三者としてではなく、当事者として御言葉によって十字架の主を見ることなのです。もし私たちが、第三者としてしか十字架の主を見ることができないのであれば、私たちの間の愛も第三者的であり、それは、愛ではなく愛し合いごっこの類です。
御言葉に悔い改めて、この私たちこそが、主イエスの十字架の当事者である、この私のために主イエスは十字架で死んでくださった、と言う立場で十字架の主を仰ぐ時にだけ、私たちの間の愛は偽りのないものへと変えられていくのではないでしょうか。そして、主イエスを見る、と言うのはこの偽りのない愛に生かされる時に必ず実現するのです。ですから、大切なのは、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」、これが今私たちの礼拝の中で起こっているのかいないのか、このことではないでしょうか。信徒の前に十字架の主イエスがはっきり示されないのなら、そこには愛も交わりも生まれないからです。実に「主イエスを見る」、ここに私たちがおささげする礼拝の目的がございます。それは当事者として主イエスに結び付けられた私たちが、同じく当事者として十字架の主を仰ぐことに他なりません。