2025年03月16日「聖霊は共におられる」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

聖霊は共におられる

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章15節~17節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

15節 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
16節 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
17節 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
ヨハネによる福音書 14章15節~17節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「聖霊は共におられる」ヨハネ14:15〜17

今週から、この日本語訳聖書では「聖霊を与える約束」、と小見出しが付けられている大きな段落へと入ってまいります。先週の御言葉では、聖霊のお働きが暗示されている程度でしたが、実はそれが伏線となって、本日の御言葉からは、聖霊なる神様について大々的に語られていくわけです。聖書全体の中でも、これほど聖霊なる神様にスポットが当てられている箇所は他にはございません。まさに、ここから先は、聖書きっての聖霊論であり、そう言う意味では、本日与えられた御言葉は、「聖霊論序論」と申し上げてよろしいでしょう。

 その聖霊論序論で早速主イエスが、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(16節)」、と弟子たちに言われます。ここで、「弁護者」、という字が出てきます。この字はギリシア語では、「パラクレートス(παράκλητος)」と発音しまして、ここでは「弁護者」、と訳されていますが、この字は「慰め主」あるいは「助け手」、とも訳せる大変含みのある大切な言葉です。そして、この少し先の26節では、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が」、とこのように、この「弁護者」=聖霊であることが明確にされます。

ここで注目したいのは、聖霊なる神が、「別の弁護者」、と言われているところなのです。この「別の」、という字は、ギリシア語では、「もう一人の」、くらいのニュアンスです。

つまり、第一の弁護者は主イエスご自身であった、と言うことなのです。他ならぬ主イエスご自身が、地上の歩みにおいて、弟子たちの弁護者であり、慰め主であり、助け手、すなわちパラクレートスであって、最後には十字架で死んでくださることで、そのお働きを全うして下さったのです。

これは、このヨハネ福音書と大変関わりが深いと言われるヨハネの手紙で証言されています。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。(Ⅰヨハネ2:1)」、この通りです。つまり、第一の弁護者(パラクレートス)は主イエスご自身であって、この主イエスは、今は天におられて「御父のもと」で、私たちを執りなして下さっている、と言うことです。

ですから、本日の御言葉の方では、その天の父の隣で、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして〜」、と主イエスは「別の弁護者」を予告しているわけなのです。

さらに大切なのは、「別の弁護者」である聖霊なる神様の御存在の在り方が、「永遠にあなたがたと一緒にいる」、と約束されているところなのです。第一の弁護者(パラクレートス)である主イエスは、弟子たちの目には見えなくなってしまうのです。それは天の父の許に行かれるからです。しかし、第二の弁護者(パラクレートス)である聖霊なる神様は、永遠にこの地上におられる、ということになるのです。つまり、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」、これは福音宣教の新しい時代の主イエスと私たちとの関係に他ならないのです。

そして、実にこれは、マタイ福音書の結論とも言える最後の主イエスの言葉とも見事に一致します。「イエスは、近寄って来て言われた〜(中略)〜わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:18〜20)」、これはすなわちインマヌエルの約束です。この主イエスが私たちと共におられる、インマヌエルである、その存在のあり方を具体的に示しているのが、ヨハネ福音書の方なのです。ですから、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」、これがマタイ福音書の方で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、と主イエスが約束されたインマヌエルのその具体的な状況なのです。

しかし、ここで、解決しなければならない問題が一つあります。主イエスが第一弁護者(パラクレートス)のあり、聖霊なる神が第二の弁護者(パラクレートス)であることはわかった。主イエスが天におられて私たちを執りなしてくださり、そして聖霊なる神様が直接私たちのそばにいて私たちを弁護し、慰めてくださる、この両者のご存在にあり方もよくわかった。しかし、問題は、今は主イエスも聖霊なる神もこの目では見えない、ということなのです。だから、天におられようと地におられようと、私たちにとっては同じではないか、という疑問が浮かび上がってくるのではないでしょうか。

私たちと共に地上におられることの意義は、天という場所以上に、その御存在の確かさが確認できることにあるはずだからです。天というのは、別に空の彼方という意味ではなくて、私たちのすぐ近くにあっても肉体の目では見えない霊的な場所を指しています。ですから、主イエスが天におられるのに対して、その天から遣わされた聖霊なる神が私たちと共にいる以上、肉体の目で見ることはもちろん不可能であっても、より近く私たちと共におられるその事実があるはずではないでしょうか。

実は、それに回答を与えるのが次の節なのです。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。(17節)」、ここでは、弁護者(パラクレートス)である「真理の霊」、すなわち聖霊なる神様に対する、この世の理解の仕方と、「あなたがた」、と呼ばれる私たち信仰者の理解の仕方が対比されて、私たちと共にいてくださる聖霊なる神の存在のあり方が明確にされています。

まず、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」、と断言されます。ここでは、聖霊なる神様に対するこの世の見方と知り方が指摘されているのです。「見ようとも知ろうともしない」、と言うのは、この世が外側から観察して客観的に理解しようとするその方法で、すなわち、この世の論理に聖霊なる神を当てはめて、その人間の物差しで計測して匙を投げてしまうそのやり方です。そのようなちっぽけな物差しで全能者を計測することなどできるはずがない、その姿が、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」、と言われているわけです。それに対して、「しかし、あなたがたはこの霊を知っている」、と主イエスは言われます。それは、その方法が正しいからです。そしてその方法が、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」、と続きます。外部から客観的に観察して、「ここにいる」、「あそこにいる」、ではないのです。そうではなくて、「この霊があなたがたと共におり」、と聖霊なる神様の方が私たちと共にいてくださる、これなのです。私たちが理解しようがしまいが、まず聖霊なる神様が私たちと共にいてくださる、これが、私たちが聖霊なる神様の御存在を知ることができる唯一の方法なのです。しかも、「あなたがたの内にいるからである」、とも言われ、この私たちの中に聖霊なる神様が宿ってくださることまでここでは約束されているのです。この「あなたがたの内に」、と言うのは「あなたがたの間に」、と言う意味も含みます。ですから、ここでは聖霊なる神様の御存在のあり方が、「私たちと共に」、「私たちの内に」、そして「私たちの間に」、とこのように多様に語られているわけなのです。つまり、聖霊なる神様が共におられる、このインマヌエル、これは、客観的な観察によって理解することではなくて、経験的に、すなわち、この私たちの信仰生活の現実の中で理解され、証言されることであるのです。

これはパウロがコリント書で謳っています。「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。(Ⅰコリント2:12)」、ここでも聖霊なる神様を、「神から恵みとして与えられたものを知るようになった」、と全ては神の側の恵によって知ることができる、と言うことが明確にされています。

この聖霊なる神様が私たちと共にいてくださる、その時に起こる信仰生活の状況について、「ちいロバ」、と自らを称した榎本保朗牧師は自身の経験的な理解として次のように書き残しています。

「聖霊の迫りとは、それは損だ、それはつまらないことだとわかっているのに、なぜかそうせずにはいられなくさせていく力のことであると思う。」・・・聖霊が共におられる、その時、私たちの行動の原則は、この世の基準ではなく、神の国の基準に変わります。時間も財産も人間関係も。この世的に損であっても、愚かであっても、その道に進まざるを得ない、それが、聖霊が共におられる、そのインマヌエルを経験することであります。そして、それこそが救いと真理と命への道であります。