2025年03月09日「福音宣教の基準」
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福音宣教の基準
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 14章12節~14節
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聖書の言葉
12節 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
13節 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
14節 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
ヨハネによる福音書 14章12節~14節
メッセージ
説教の要約「福音宣教の基準」ヨハネ14:12〜14
ヨハネ福音書の14章に入り、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(6節)」、と主イエスは、ご自身を通らなければ、救いがあり得ないこと、永遠の住まいへの道はイエスキリストだけであることを宣言されました。そして、その根拠として、「わたしを見た者は、父を見たのだ(9節)」、と主イエスが天の御父と一心同体であることを示されました。すなわちここまでの箇所で、鮮やかにキリスト教信仰の核心が謳われてきたわけです。
しかし、キリスト教信仰は、それでおしまいではありません。一つ足りないものがございます。それは、伝道です。福音の宣教です。御言葉の真理を理解して、信仰が与えられ、救いと永遠の命に生かされた時、必ず、私たちは、その救いをのべ伝える働きへと駆り出されるのです。
あたかもそれを証明するかのように、本日のこの最後の段落では、福音宣教の基準が簡潔に示されているのです。ここでは、まずその福音宣教の全体像が、主イエスご自身の口を通して、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(12節)」、と宣言されています。
これは、復活された主イエスが天に昇られる直前に語られたことと見事に一致します。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録1:8)」、この箇所です。使徒言行録は、聖霊に満たされて力を与えられた使徒たちが、エルサレムばかりでなく、ユダヤからサマリア、そして地の果てにまで福音を宣教する記録であり、ヨハネ福音書でもこれと全く同じことが語られているわけなのです。ですから、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」、これは、主イエスが天の父のもとに行かれたのちにペンテコステの日に聖霊が降り、その聖霊の力によって、使徒たちが、「ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」福音を宣教する、その予告となっているのです。そして、その延長上に私たちの福音宣教は続いているのです。
主イエスが地上を歩まれたときは、人間的な制約と無関係ではありませんでした。それは、主イエスが、真の人となってくださったからです。ですから、主イエスの福音宣教の範囲は、ガリラヤからエルサレムまでを中心としたパレスチナ地方の一部分でした。しかし、天に昇られて神の右に座した主イエスにはもはやそのような制限はありません。その場所から聖霊なる神様を遣わして、使徒たちを用いて福音を地の果てまで響かせたわけです。それが、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」、と主イエスが言われた意味なのです。
ですから、「わたしを信じる者」は、小さくても弱くても全く問題ないのです。ペンテコステの日に最初に御言葉を解き明かしたペトロは強い信仰者であったでしょうか。いいえ、そのほんの少し前に、三度主イエスを知らないとシラを切った男です。ペトロは、「ただの裏切り者」で生涯を終えても仕方ない立場でした。しかし、聖霊に導かれた時、それは全く問題ではなかったのです。福音宣教のイニシアティブは聖霊なる神様にあって私たちにはないからです。ですから、実は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」、これが不可能だと思う時、既に私たちは大きな勘違いをしているわけです。
そして福音宣教の主役が私たちではなくて、主なる神の方にあることがさらに明確にされます。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。(13節)」、ここで、「何でもかなえてあげよう」、と訳されていますが、これは誤解を生みやすい表現です。この部分は直訳しますと、「何でも私が行う」、となりまして、ここは、「わたしの名によって願うことは、何でも私が行う」、とこのように主イエスは言われているのです。そして、この「行う」、という字は前の節で、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」、と繰り返される、「行う」、と言う字と全く同じ言葉なのです。
すなわち、「わたしを信じる者」、である私たち信仰者が行う業というのは、そのまま主イエスが行う業である、ということなのです。私たちが行う福音宣教の務め、それは私たち自身の働きではなくて、主イエスの働きであって私たちは用いられているだけである、ということです。これが非常に大切です。「もっと大きな業を行うようになる」、というのは、聖霊なる神のイニシアティブによって私たちが用いられるのでありますが、それは主イエスの業であり、しかもその責任者は主イエスである、ということになるからです。福音宣教の責任は主イエスがとってくださるのです。だからここで主イエスは「私が行う」、とより積極的に言われているわけです。
このことは次の節で繰り返されることによってさらに強調されます。「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(14節)」、ここでは、前の節と同じ字と同じ表現が丸ごと使われていて、先ほどから確認してきました福音宣教の本質が執拗なほどに示されています。
前の節から繰り返される、この「わたしの名によって」、というのは言うまでもなく主イエスの名によって、と言うことで、聖書的に名前というのは、その人物の全存在を表現する意味を持っていますので、つまり、「わたしの名によって」、これは主イエスの全存在によって、という理解です。
その上で、ここでも、以下の文章を素直に訳しますと、「わたしの名によって願うことは、何でも私が行う」、となります。実は、両方の節で繰り返される、この「願う」、という字がとても含みを持った大切な言葉で、他の箇所で主イエスがこの言葉を用いて極めて重要な真理を語ります。
①マタイ7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」、ここで真っ先に「求めなさい」、と主イエスが、強く命じられる、「求める」、という字、これが本日の箇所では「願う」、と訳される同じ言葉です。つまり、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」、これはそのまま福音宣教に与えられた約束なのです。主イエスは福音宣教に大切なものを全て与えてくださり、見つけてくださり、そして福音宣教の門を開いてくださる、「私が行う」と言われた主イエスが福音宣教の全責任をとってくださる、というのはこの御言葉で約束されている通りなのです。
②ルカ11:13 「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」、この最後の「求める者に聖霊を与えてくださる」、とありますこの「求める」、という字、これも本日の箇所で「願う」、と訳される同じ言葉です。そして、ここでは、この言葉が、「聖霊を与えてくださる」、という決定的でこれ以上ない約束のために用いられています。ですから、 本日の御言葉で、「わたしの名によってわたしに何かを願うならば」、と主イエスが言われます時、私たちは、聖霊なる神様を与えてください、と祈ることが許されているし、それが求められているのです。主イエスの全存在によって聖霊なる神様を請い求める。ここに福音宣教に携わる者のあるべき姿がございます。
すなわち福音宣教とは、父、子、御霊なる神の御業であり、私たちがこれに勤しむときに、この三位一体の神に結びつけられて、神の国の完成のために用いられている、この計り知れない恵なのであります。そして私たちが三位一体の神に結合されるから、私たちは神の御心に支配され、必然的に福音宣教に駆り立てられるのではありませんか。これが福音宣教の基準であり根拠なのです。
十字架の言葉に命をかけて世界中を駆け回り、世界宣教への扉を開くために用いられた使徒パウロは、この福音宣教の基準を実に見事に謳っています。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(Ⅱコリント5:14)」
これこそが福音宣教の基準です。私たちこの御言葉に立とうではありませんか。