続いて「わたしを見た者は、父を見たのだ」、この真理が解明されていきます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。(10節)」、ここで主イエスが言われた「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられること」、これは非常に大胆な宣言となっています。ここでは、「わたし」、とされている主イエスと「父」とが全く同じ立場にされているからです。今までもこのヨハネ福音書では主イエスと天の父との同一性が繰り返し示され、これがこの福音書で貫かれている真理なのです。この節ではその真理に立って両者は一心一体である、天の父と主イエスとは同じである、とここまで言われています。しかもギリシア語の聖書では、とても簡単な構文で示されていますので、もはやこれは逃げも隠れもできない確固たる表明です。英語の聖書を引用しますとわかりやすいと思います。ここはとても簡単な英語で、 I am in the Father, and the Father is in meと記されているからです。もうこれは誤解の余地がありません。逃げも隠れもせずに、ここで主イエスは、堂々と真っ向正面からご自身と天の父が一心一体である、と言われているのです。
「御父を見たもの」ヨハネ14:8〜11
本日の御言葉では、先週主イエスが宣言された「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(6節)」、この真理を裏付ける主イエスと天の父との一体性が示されます。
そのきっかけとなったのは、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます(8節)」、という弟子の一人であるフィリポのこの要望です。これに対して、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。(9節)」、と主イエスは回答しました。ここで大切なのは、「わたしたちに御父をお示しください」、という要望は、神秘的に解決されるものではないということです。それは、あくまでも、「わたしを見た者は、父を見たのだ」、と客観的に解決される問題であるということなのです。つまり、天の父を見る、ということは個人的で主観的な神秘主義によってではなくて、むしろ客観的で信仰者の中で共有できる極めて現実的なことである、これがここで主イエスが言われている意味なのです。
続いて「わたしを見た者は、父を見たのだ」、この真理が解明されていきます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。(10節)」、ここで主イエスが言われた「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられること」、これは非常に大胆な宣言となっています。ここでは、「わたし」、とされている主イエスと「父」とが全く同じ立場にされているからです。今までもこのヨハネ福音書では主イエスと天の父との同一性が繰り返し示され、これがこの福音書で貫かれている真理なのです。この節ではその真理に立って両者は一心一体である、天の父と主イエスとは同じである、とここまで言われています。しかもギリシア語の聖書では、とても簡単な構文で示されていますので、もはやこれは逃げも隠れもできない確固たる表明です。英語の聖書を引用しますとわかりやすいと思います。ここはとても簡単な英語で、 I am in the Father, and the Father is in meと記されているからです。もうこれは誤解の余地がありません。逃げも隠れもせずに、ここで主イエスは、堂々と真っ向正面からご自身と天の父が一心一体である、と言われているのです。
これは次の節でも繰り返されます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。(11節)」、実にこの節で記録されているように、主イエスのそのお働きが父のお働きであるほどにご自身と天の父とが一体である真理を宣言したがゆえに主イエスは十字架で殺されたのです(5:18、10:37〜39を参照)。すなわち、主イエスは、天の父と一心一体、すなわち真の神であったから十字架で殺されたのです。逆に言えば、主イエスが真の神でなければ十字架とは無縁であったのです。ここに計り知れない神のご計画があるのではないでしょうか。この神の御子の十字架というこれ以上ない人の罪が、私たち罪人の救いと永遠の命というこれ以上ない恵に逆転したからです。
しかし、ここで、「わたしが言うのを信じなさい」、そして、「業そのものによって信じなさい」、と主イエスが繰り返し「信じなさい」、と言われたのは、どうしてでしょうか。それは、弟子たちが信じていなかったからです。つまり、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」、これがフィリポのみならず弟子たち全員の立場であったわけです。そして、彼らは結局のところ主イエスが十字架で殺されるまで、そして主イエスが復活されて天に昇られて、ペンテコステで聖霊が降るまで、信じられなかったのです。これは裏返せば、長い間主イエスと一緒にいても主イエスが誰だかわからない、と言うことになります。弟子たちは、これ以上ない近さで、そして親しさで主イエスを見続けてきたからです。つまり、肉の目で見る主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」、と言う意味で主イエスを見ることの妨げにさえなりうるということです。ですから、実際その目で主イエスを目撃していた弟子たちであれ、主イエスが天に昇られた後に生かされている私たちであれ、主イエスを信じるために与えられている条件は同じなのです。「地上を歩まれた主イエスを見たら、すぐにでも信じられるのになぁ」、などというよくありがちな発想は大間違いなのです。かえって肉眼で見た主イエスは躓きにもなりうる貧しいお姿でありました(イザヤ53章参照)。
では、どうすればよいのか、どうすれば「わたしを見た者は、父を見たのだ」、この真理を信じ受け入れることができるのか。実に、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」、ここにそのまま解答が暗示されています。つまり大切なのは、見る目なのです。弟子たちは、肉体の目で主イエスを目撃し続けていたので、何も起こらなかった。しかし、復活の主イエスが天に昇られ、目の前におられないのにも関わらず、ペンテコステの日には3000人もの人々が主イエスを信じました(使徒2:41)。それは聖霊が降ったからです。さらにペトロが長い間主イエスと歩んできたその目撃証言を旧約聖書を紐解いて人々の前で解き明かしたからです。つまり御言葉の説教です。その時、そこに集まっていた人々は、3年どころか、1日もかからず、「わたしを見た者は、父を見たのだ」、というレベルで主イエスを信じたのです。すなわち、「わたしを見た者は、父を見たのだ」、というこの事態が実現するために必要なのは、御言葉の説教と聖霊の導きである、ということです。聖書の御言葉が正しく解き明かされ、聖霊に導かれるのなら、誰でも「わたしを見た者は、父を見たのだ」、という真理が与えられる、ということなのです。
しかしながらそれで一件落着ではありません。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」、という主イエスの言葉は私たちに常に向けられています。一度信じたら、一度わかったら、それで「めでたしめでたし」で終わりではないのです。私たち疑うからです、迷うからです。主イエスが、天の父が見えなくなるからです。この世の眩さに、自らの罪に、怒りに、悲しみに、見えなくなるからです。ですから私たちは常に悔い改めなければならないのです。先週、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、この御言葉から、救いの道が一つしかないことが確認されました。そして、あの「とんちの一休さん」で有名な一休宗純、というお坊さんが詠んだ「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月こそ見れ」、という詩を紹介しました。すなわち、この世には多くの教えや宗教があるが、どれでも真剣に進めば救いのゴールへと到達する、と一休さんは言うわけです。これは一休さんの立場では言えば「悟りを開く」、という状態でありましょう。その悟りというのは、決して一つではないから、この宗派だけでも道が無数に増えていくのです。私たちのキリスト教信仰には悟りというものはありません。しかし、あえて、悟りが私たちのキリスト教信仰のどの位置にあるかと聞かれましたら、それは悔い改め、と回答いたします。常に悔い改めて、唯一の救いの道に立ち帰る、ここにだけ救いがあるからです。