2025年02月22日「わたしは道であり、真理であり、命である」
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わたしは道であり、真理であり、命である
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 14章4節~7節
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聖書の言葉
4節 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
5節 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
6節 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
7節 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
ヨハネによる福音書 14章4節~7節
メッセージ
説教の要点
「わたしは道であり、真理であり、命である」ヨハネ14:4〜7
先週の御言葉に引き続き、本日の箇所でも、主イエスと弟子たちとでは、まるで平行線をたどるように噛み合わないまま記事が進行していきますが、その状況の中で、大切な真理が示されていくところが、本日の御言葉のポイントです。
ここで、主イエスが、「 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている(4節)」、と言われたのに対して、弟子の一人であるトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。(5節)」、と問いかけているのですが、それに対する主イエスの回答が非常に大切です。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(6節 )」、実にここにキリスト教の本質があるからです。主イエスこそが、「道であり、真理であり、命」であって、この主イエスを通らなければ、「だれも父のもとに行くことができない」、これこそがキリスト教なのです。「父のもと」、と言いますのは場所的に言えば天地を貫く神の国であり、内容的には人が救われる、という状態です。それは、主イエスを通らなければ不可能である、ということなのです。
「とんちの一休さん」で有名な一休宗純、というお坊さんは、今の時代でも親しまれているある詩を詠みました。それは、「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月こそ見れ」、というもので、この意味合いとしては、「真理の山に向かう道は異なっても、私たちは同じ月を見ることができる」、このようなところでしょうか。すなわち、この世には多くの教えや宗教があるが、どれでも真剣に進めば救いのゴールへと到達する、と一休さんは言うわけです。例えてみれば、富士山の頂上に行くためには4つのルートがありますし、10も20も登山道がある山もありましょう。しかし、どの道を選んでも、歩き続ければ頂上に行けるわけです。そして、実にこれが八百万の神が崇められる私たちの国で支配的な宗教感覚ではないでしょうか。しかし、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、と主イエスが宣言します時、これは真っ向から否定されるのです。キリスト教とは、道が一つしかない宗教であり、その道はイエスキリスト以外ではないのです。
ここで、注目したいのは、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、この主イエスの宣言を逆に言えば、主イエスを通るのであれば、誰でも天の父のもとにたどり着くことができる、この福音の確実性なのです。ですから大切なのは、主イエスを通ること、すなわち、「道であり、真理であり、命である」、この御言葉に立って福音宣教に勤しむことなのです。
しかし、「言うは易く行うは難し」と言います。実際、この異教の地で、「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月こそ見れ」、この思想に支配されているこの国で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、と大胆に宣言することができるでしょうか。独善的である、と批判されないでしょうか。むしろ、少しばかり妥協して相手の立場を認める日和見主義に立った方が成功するのではないでしょうか。
はっきり申し上げます。日和見主義、それが最も危険です。そのような福音宣教なら最初からやらない方がよっぽどマシです。福音宣教の主は、聖霊なる神様であって私たちではないからです。私たちの都合で真理を歪めれば、聖霊なる神様のお働きから脱落するばかりでなく、私たち自身も天の国から除外されるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、これは何一つ曲げても削ってもならない神の言葉であり、まさに、私たちの「道であり、真理であり、命」なのです。この地上の命が取り上げられても、です。実際、最初期のキリスト者は、この御言葉に命をかけたが故に殉教の道が与えられたのです。
しかし、それはキリスト教以外の宗教を非難したり攻撃したりすることではありません。私たちの立場は原理主義ではないからです。むしろ逆です。どのような立場にある方にも扉を開いて招き入れる、これが福音宣教です。ですから間違えてはならないのは、私たちが正しいわけではないと言うことです。そもそもキリスト教信仰においては、独善的という言葉自体矛盾しているのです。私たちそのものには善のかけらもないからです。主イエスだけが、道であり、真理であり、命であって、私たちはただの罪人に過ぎないのです。パウロが、「我罪人の頭なり」と告白しましたように、最初期の教会はむしろ謙って伝道を続けたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」、私たちは、この主イエスがおられなければ生きていけないからキリスト者なのです。言い換えてみれば、私たちは、御言葉がなければ、救いの道さえわからない愚か者なのです。
この説教の後で賛美いたします讃美歌の288番は、まさに私たちのその弱さを歌っています。御言葉の説教と讃美歌は一体的でなければなりません。今まで申し上げたことは一度もなかったのですが、説教の黙想をする上で説教の前後の、とりわけ説教の後の讃美歌が与えられることは極めて重要なのです。説教の後の讃美歌によって、私たちの悔い改めが歌になり、あるいは喜びが躍動するからです。ですから、年に何度か週報の予定とは違う讃美歌を週の途中で奏楽者にお願いすることがあるのです。説教の御言葉が与えられる中で予定が見事に粉砕されるからです。
この288番は本日の御言葉をそのまま準えるように謳われます。
ゆくすえとおく見るを ねがわじ
主よ、わがよわき足を まもりて
ひとあし、またひとあし
みちをばしめしたまえ(2節)
これこそが、この弱さこそが、この愚かさこそが、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、この御言葉に対する私たちの立場ではないでしょうか。主イエスは天におられ、目には見えません。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」、実に、これが私たちの眺めている地平であり、いつの時代であってもそれが私たちキリスト者の「道」なのです。しかし、その弱い私たちが、揺るぎない希望を持ってその道を歩んでいるところが伝道の舞台ではないでしょうか。
いつの時代も、御言葉には力があり、ここに立つ限り、私たちの救いは確実だからです。弱い者が救われるから福音であり、それを目撃した弱い者たちが救われるのが福音宣教なのです。福音宣教で大切なのは、この世を批判するのではなく、むしろ私たちが自らを批判することなのです。
「ゆくすえとおく見るを ねがわじ 主よ、わがよわき足を まもりて ひとあし、またひとあし みちをばしめしたまえ」、なんと弱々しい立場でありましょうか。
しかし、ここにこそ救いがあり、「わたしは道であり、真理であり、命である」、この主イエスの御言葉が立ち上がるのです。