2025年02月16日「主イエスが用意された場所」
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主イエスが用意された場所
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- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 14章1節~4節
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聖書の言葉
1節 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2節 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3節 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
4節 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
ヨハネによる福音書 14章1節~4節
メッセージ
説教の要点
「主イエスが用意された場所」ヨハネ14:1〜4
本日からヨハネ福音書講解は、14章へと入っていきます。ここで「心を騒がせるな」、とまず主イエスは言われます。
前回までの箇所で、主イエスはどこかへ行ってしまうと言われるし(33、36節)、頼みのペトロもあてにはならない(38節)。今まさに弟子たちは、どうすればよいのか全くわからない、そういう状況であったのです。そこで、「心を騒がせるな」、とこのように主イエスは言われたわけです。
その最たる根拠が、「わたしの父の家には住む所がたくさんある(2節)」、この主イエスの約束でした。ここでは、この「住む所」、という字が大切です。これは、新約聖書で、2回しか使われない言葉で、その二つともこのヨハネ福音書の14章に見られます。そのような事実から、非常に大切な状況を言い表すためにあえてここで使われているようにも思われます。そして、そのもう一つは、「イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。(23節)」、この最後の「一緒に住む」、の部分です。
主イエスは、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」、と言われました。そして、それは、天の父と主イエスが一緒に住んでくださる場所である、ということで、これは想像を絶するような驚くべき恵の状態なのです。ところがそれでは終わらないのです。
実は、この「住む所」、という字は、「とどまる」、と通常訳される動詞が名詞になった言葉で、そして、その「とどまる」、という字は、聖霊なる神の存在のあり方を示すために使われる言葉だからです(ヨハネ1:32、33参照)。ですから、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」、この天の父の住まいは、天の父がおられる場所であり、そこに主イエスもおられる、さらにそこには聖霊なる神様の存在まで暗示されるわけなのです。すなわち、「わたしの父の家」、ここは三位一体の神の住まいであって、そこに主イエスは、「場所を用意しに行く」、とここで約束してくださっているのです。私たちは、主イエスによって三位一体の神の住まいに招待されている、ということです。
では、この三位一体の神がとどまる、「わたしの父の家」、この場所は一体どこでしょうか。これはつまり終わりの日に完成する天の国なのでしょうか。しかし、どうも「わたしの父の家」、これをそのまま天の国、とすることは難しいと思います。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(3節)」、とこのように主イエスが言われているからです。さらに、この部分をギリシア語の聖書に忠実に訳しますと、「再び戻って来て、そこであなたがたをわたしのもとに迎える」、と「わたしの父の家」が、この地上にあるかように訳されているのです。そして実はそうなのです。
ここでは終わりの日に御国が完成した時のこととして、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」、と主イエスが言われているのではないのです。そうではなくて、これは今この地上で既に実現していることなのです。そもそも、天の国というのは、地上と無関係に終わりの日までポツンと空に浮いているわけではないのです。そうではなくて、地上でも既に天の国は始まっている、それが聖書的な天の国、言い換えれば神の国の理解です。
では、その天の国である「わたしの父の家」とはどこにあるのか。結論から申し上げれば、「わたしの父の家」、それはキリストの教会でありまして、まずあのペンテコステの出来事によって始まったのです。
すなわち、「行ってあなたがたのために場所を用意したら」、これは主イエスの十字架と復活、そして昇天までのお働きです。そして、「戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」、これがペンテコステの出来事でありまして、「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」、これこそがこの地上の教会の姿なのです。ペンテコステの日に聖霊なる神様が降り、信仰者にとどまった、と聖書は報告し、そこからこの地上にキリストの教会が明確な姿をとって現れたからです。
ですから、実に私たちが今礼拝をおささげしていますこの教会が、「わたしの父の家」、と言われている場所に他ならないのです。ここは、「わたしの父の家」、であり、キリストの体であり、聖霊の宮でありまして、ここに神の国は実現しているのです。しかも、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」、と主イエスは言われます。つまり、教会にこの世的な人数制限はないのです。確かに神様は、救われる者の人数までご計画しておられます(*例えばウェストミンスター信仰告白3:4はこの限定的な救いを明確に告白します)。しかし、それはこの世的な物差しで数えられるようなものではないはずです。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」、と主イエスが言われる以上、たくさんある「住む所」は、必ず全て満たされるはずです。全能の神がどうして空室を創られましょうか。この主イエスの言葉は、私たちの福音宣教に励ましと慰めを与えます。
加えまして、主イエスの、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」、このお働きによって、天と地とは貫かれたのです。私たちのこの地上の教会と、私たちの元から既に地上を去っていかれた信仰者たちが所属する天上の教会が繋がった、と言うことです。キリストの教会は、全世界に響きわたる十字架の福音というこの地上的な広がりだけではないのです。天を貫いてその声は響いているのです。
この御言葉の説教の後に讃美歌の191番で主なる神を賛美いたしますが、その4節はこのように歌います。「世にのこる民 去し民と ともにまじわり 神をあおぎ」・・・、私たちが幾度も励まされてきた信仰の歌です。2年前に私たちの教会から二人の信仰者が天の国に迎え入れられた時に、何度も申し上げました。「私たちの群れから愛する兄弟姉妹が天の御国へと召されていくごとに天の国は近くなっていく」、と。この群れにいて、ともに交わり主を賛美した仲間、時には大喧嘩さえした兄弟姉妹、大切な信仰の父、母、その姿も、その声も、その匂いさえもよく覚えているからです。
これから10年後、20年後、とこの群れから天に召される方もおられるでしょう。その時は必ず来るのです。しかし、それは礼拝の場所が変わっただけの話で、決して遠く離れていくわけではないのです。それどころか、再会するときには、想像などできない喜びが約束されているのです。
私たちは今新しい会堂の建築のために勤しんでいます。神様のお許しがあれば、夏の日に高島平の地に新しい会堂が建てられ、私たちはその建物の中に集うでしょう。
しかし、そこは決して小さな空間ではなく、地上に、そして天の国へと限りなく伸びているのです。
「限りなく」、なんと希望にみちた言葉でありましょう。それが、主イエスが用意された場所であります。
「いともとうとき 主はくだりて 血のあたいもて 民をすくい
きよき住まいを つくりたてて そのいしずえと なりたまえり」(讃美歌191番1節)