2025年02月09日「人の弱さ」

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36節 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
37節 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」
38節 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ヨハネによる福音書 13章36節~38節

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説教の要約

「人の弱さ」ヨハネ13:36〜38

本日の御言葉は、大変有名なあのペトロの否認を主イエスが予告した場面で、これは通常共感福音書と呼ばれる3つの福音書でも記録されていることからも、その重要性が裏付けられています。

ここでは、ペトロの、「主よ、どこへ行かれるのですか(36節)」、という質問から場面が展開していきます。これは、前の段落で、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない(33節)」、と主イエスが言われたことに対する問いかけです。それで、主イエスはさらに詳しく「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる(36節)」、とこのようにその状況を説明されます。ここでは弟子として主イエスに従う、これは、今と後では全く違う状況となることが予告されているわけです。その今と後との分岐点は主イエスの十字架と復活です。主イエスの十字架と復活の前である今、弟子たちは主イエスに従うことはできない。しかし、十字架と復活の後には、彼らは主イエスに従うことになる、とこのように主イエスは言われているのです。つまり、主イエスの十字架と復活の前と後では、弟子たちの見える景色も、弟子たち自身の姿も、その働きも180度変わってしまうわけで、主イエスの十字架と復活というのは、罪人の進む方向を180度変えてしまう決定的な出来事である、ということなのです。そして、事実そのようになったわけです。

 しかし、当然ペトロは納得しません。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます(37節)」、と食い下がります。彼は、決して生半可な気持ちで言っているのではなくて、人生を主イエスにかけているのです。

 ところが、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう(38節)」、とそのペトロの立場はあっさりと退けられました。しかし、これは非難ではなくて憐れみです。「後でついて来ることになる」、と最初に言われているからです。主イエスは、ペトロが、三度ご自身のことを知らないと言うことに、何の憤りも示しておられないのです。それはただの通過点であり、大切なのは、「後でついて来ることになる」、こちらの方なのです。

 ペトロが三度主イエスを否認した記事は、この後18章で記録されていますので、その箇所に差し掛かったときに改めて学ぶことにいたしますが、その予告である、本日の御言葉が最も強く訴えているのは、人間の弱さです。そして、その人間の弱さというのは、最も簡潔に申し上げれば約束ができない弱さで、むしろ、約束が裏切りに転落してしまう弱さのです。「あなたのためなら命を捨てます」、これは約3年間主イエスと共に歩んだペトロの揺るぎない確信であり、アイデンティティでもありました。主イエスへの忠誠心、これこそが他の弟子たちには絶対負けないと自覚していたペトロの取り柄であったのではないでしょうか。これが守れなければペトロはペトロではなくなってしまう、その大事な立場であったのです。しかし、それが守れなかった、それどころか、ペトロは、三度主イエスのことを知らないと断言して、その正反対のことをやらかしてしまうことになるのです。ここに、約束を守れない、という人間の弱さが実に見事に示されています。そして、これは、私たち全員の問題です。私たちは、多かれ少なかれ、取り柄のようなものはあるのではないでしょうか。一つくらいは任せてほしい、と思えるような賜物が。しかし、その一つでも絶対、と約束できるものはないのです。ところが、そこに許しが与えられているのが、本日の御言葉なのです。これなのです。この御言葉は。

 もう一度、主イエスの予告とそれに対するペトロの約束の御言葉を見ていただきたいのです。

主イエスは、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。(36節)」、と予告しました。それに対して、ペトロは、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。(37節)」、と約束します。ここでは、主イエスの予告も、ペトロの約束もギリシア語の文法では未来形で記されていて、具体的にそれは、主イエスの、「後でついて来ることになる」、この部分、そして、ペトロの「あなたのためなら命を捨てます」、この部分です。ここでは両方とも未来形でありながら、「〜であろう」、とは訳してはいません。この未来形は100%実現するニュアンスで語られているからです。英語に置き換えてみるとわかりやすいと思いますが、未来を表す助動詞のwillというのは、必ず実行するときに使われます。この単語は、名詞になると意志、決意、遺言、とも訳せますように、その力強いニュアンスで未来を語るのが、助動詞のwillなのです。「私の意志がそこにある」、そういう力強さです。しかし、ペトロの「あなたのためなら命を捨てます」、このwillは、どうだったでしょうか。ものの見事に崩れ去りました。しかし、それは問題ではないのです。主イエスのwillの方が確実であるからです。「後でついて来ることになる」、これは何一つ違わずに実現したのです。ペトロは、主イエスを裏切った、という客観的には大罪、そして主観的には彼自身の中で大きな恥をかかえつつ、立ち帰ったではありませんか。

どんなに私たちが弱くとも、主イエスが、「後でついて来ることになる」、と決めてくださっている以上、後でついて来ることにならざるを得ないし、そのように導かれるのです。私たちは何一つ確実な未来を約束できない弱い者たちです。しかし、それは問題ではないのです。私たちのwillが崩れ去ったときに、主イエスのwillが立ち上がるからです。人間関係は相互の約束で成り立っていても、神様との関係は神様の一方的な約束、すなわち契約で成り立っているのです。ですから、大切なのは、私たちが自らの罪や汚れ、そして弱さに悩んだり、立ち止まったり、うつむいたりすることではなくて、主イエスに立ち帰ること、これなのです。神様の契約の成就である十字架の主イエスに立ち帰れば、赦しの約束も、救いも、永久の命も必ず与えられるからです(讃美歌517)。

 加えまして、一つだけ解決していない問題を確認して終わります。それは、約束を守れずに地上を去っていく場合の不安です。教会はどうなるか、家族は、恋人は・・・。その場合、神様のご計画に対する信仰という言葉で抽象的に片づけるのは無責任どころか怠慢であるとさえ思います。それは、「御心、御心」、「摂理、摂理」、「安かれ、安かれ」、と呪文のように響くだけです。

 ペトロはどうだったでしょうか。「後でついて来ることになる」、と主イエスが言われた通りに、彼は使徒として立ち直り、福音宣教に勤しみました。しかし、それは、ほんの一瞬のことでした。彼は、すぐに殉教し、その働きを終えました。では、教会はその後どうなったでしょうか。大切な指導者を失い、萎んでいったでしょうか。いいえ、そこから全世界に拡大し、繁栄していった、これが歴史で証明されている事実です。ペトロが地上を去っても教会はびくともしなかった。ましてや、この弱き者が地上を去ることが一体何でしょうか。実に、人間の弱さ、それが福音宣教に影響を及ぼすことは全くない、これはすでに証明されているのです。私たちいつでも目を閉じることが許されているのです。

 人間の弱さを抱えながら、それに嘆きながら、苦しみながら、それでも、安らかに目を閉じることができる、今日この確信に立とうではありませんか。嘆きや憂い悲しみ不安、このあらゆる弱さから、キリストの強さに立ち帰えろうではありませんか。なぜなら私は弱い時にこそ強いからです。