2025年01月26日「互いに愛し合いなさい」

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互いに愛し合いなさい

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 13章31節~35節

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31節 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32節 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33節 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34節 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35節 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ヨハネによる福音書 13章31節~35節

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説教の要点

「互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:31〜35

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(34節)」、主イエスは弟子たちにこの掟を与えられました。

ここで、主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、と言われています。すなわち、主イエスが弟子たちを愛した、その同じ愛で弟子たちが愛し合うことがここで求められていて、これがこの「新しい掟」の新しさなのです。

 さらに、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(35節)」、と続きます。言い換えれば、主イエスの弟子であることを証明する、それが弟子たちが、互いに愛し合う姿である、ということです。「互いに愛し合う」、しかも、主イエスの十字架の愛で、「互いに愛し合う」、そのことが、この世に対して、わたしたちが主イエスの弟子であることを証言する非常に大切な姿である、これが私たちに示されているのです。

 さて、それが一体可能なのでしょうか。三つの点で確認します。

 一つ目、まずこれは、物分かりの悪い弟子たちに語られているという事実です。繰り返すようですが、この主の晩餐において弟子たちは、まだ何も悟っていないし、それどころか、誰が一番偉いかと論争していたかと思えば、主イエスの十字架の前に全員逃げ出してしまったのが事実です。しかし、それを誰よりもよく理解していたのが主イエスなのです。主イエスはこの愚かな弟子たちを百も承知でこの掟を与えておられるのです。ですから、主イエスが弟子たちの足を洗う場面で、主イエスはそのことをはっきりと言われていました。「イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。(7節)」、この、「後で、分かるようになる」、これは以前確認しましたように、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステで聖霊が弟子たちに降った後を意味していました。ですから、「互いに愛し合いなさい」、実際これは、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの後、弟子たちがその意味を理解した時のために語られているのです。そして、実際、その時にキリストの教会は誕生したのです。これは歴史的事実です。

 二つ目、しかし、それでも尚、その教会の中で、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、このイエスキリストの愛が実現していたか、というとそれは全く難しいということも、聖書(特に、コリント書、ガラテヤ書参照)と長い教会史が証明しています。むしろ、一瞬でも、それが実現したことはなかった、これが事実でありましょう。キリストの教会は、その最初から教会の内部で多くの問題を抱え、傷つき、倒れかかりながら、なんとか歩んできたのです。互いに愛し合うどころか、全く諍いのない教会を見つけることさえ難しいのではないでしょうか。

ではどうして倒れないのか、それは、教会が人間の力ではなく、聖霊なる神様の力で立っているからです。図らずも、私たちの愚かさは聖霊なる神様の力を証言しているのです。

 それゆえに三つ目、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、これは、私たちの人間的な力や方法ではなく、ただ神の力によって実現していく御言葉なのです。そもそも、「わたしがあなたがたを愛したように」、この主イエスの愛を私たちは体全体で理解しているでしょうか。主イエスが私たちを愛して下さった、その愛は十字架の愛です。

 

随分前に、私たちはローマ書の講解説教を通して主イエスの十字架によって示された神の愛の大きさを繰り返し、繰り返し、教えられました。例えば、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマ書5:8、9)」、ここでは、主イエスの十字架によって示された神の愛が、全ての頂点にあることが教えられました。具体的に申し上げれば、「わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」、これは、より大きな愛から、小さな愛への変化です。つまり、キリストの十字架で示された神の愛以上に大きなものはないということです。私たちは、すでにキリストの十字架という最も大きな愛を神からいただいてしまった。そうである以上、これから先、いただけないものなどあり得ない、私たちに約束されている永遠の命や御国の世継ぎさえ、キリストの十字架に比べれば、小さなものでしかないのです。主イエスの十字架以上に大きな愛はあり得ないのです。

 ですから、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、私たちは、すでにこれ以上ない愛をいただいてしまったその立場で、この主イエスの掟を読み直したいのです。字面だけで「互いに愛し合いなさい」、と言っていても何も起こらない。大切なのは、ただ御言葉によって悔い改めて、互いに愛し合うことができるように祈り続けることです私たちは、できないから祈るのです。御言葉と祈りだけが私たちの信仰の武器です。

それでも、やはりこの地上で神と教会に仕える中で、わたしたちが互いに愛し合う、それは、主イエスの愛に比べれば、ごっこにもならない、そのように思えます。良くて愛し合いごっこです。それでこの世の人たちにわたしたちがキリストの弟子であることを証言できるでしょうか。私たちはそこで絶望を感じるだけでありますが、実は主イエスは、その私たちに期待しておられるのです。

この最後の35節は、もともともギリシア語をそのまま訳しますと少し言葉の配列の順序とそのニュアンスが違います。こうなります、「このことによって全てのものたちが知る。あなたがたが私の弟子であることを。あなたがたが互いの中で愛を持っているならば。」この最後の「あなたがたが互いの中で愛を持っているならば」、というのは条件文ですが、確実性の高い未来を表現するものです。

つまり、主イエスは、この愚かなわたしたちが互いに愛し合うことができる、と期待してこれを言われているのです。私たちが弱くて貧しくてポンコツであることを一番ご存知なのは主イエスです。でも、その私たちを主イエスは信頼してくださっているのです。胸が詰まらないでしょうか。どうして、こんなに愚かなものを主イエスは信頼してくださるのか、それは分かりません。しかし、主イエスが私たちを信頼してくださる以上、必ずそのように導いてくださいます。何度も申し上げますが、私たちは、主イエスが私たちを愛したように互いに愛し合うことなどできません。しかし、希望を持ってそれを始めることはできるはずです。そして、その希望は必ず実現します。下手くそでも、ポンコツでも、この地上での歩みと天の国の連続性、すなわち私たちの永遠の命の中で必ず実現します。

わたしたちが希望に目を輝かせて、互いに愛し合う教会を実現するために主イエスに仕える時、必ず、「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」、この主イエスの言葉が現実になっていくはずです。希望を持って進もうではありませんか。