2025年01月19日「イエスの愛された弟子」

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イエスの愛された弟子

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 13章21節~30節

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 21節 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
22節 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
23節 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。
24節 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
25節 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
26節 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。
27節 ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。
28節 座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。
29節 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。
30節 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
ヨハネによる福音書 13章21節~30節

原稿のアイコンメッセージ

「イエスの愛された弟子」ヨハネ13:21〜30

本日の御言葉は、ユダの裏切りが確定する場面でありながら、イエスの愛しておられた弟子、と言う匿名の弟子が初めて登場し、この両者のコントラストを通して、主イエスの愛が描かれていきます。

まず、ユダです。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。(21節)」、この主イエスの証言から始まり、結果的にそれがユダであることが、判明しました(22〜26節)。しかし、それを示されたイエスの愛しておられた弟子は、それ以外の弟子たちと同じように、その意味が理解できませんでした(28節)。いかにユダが他の弟子たちの信頼を受けていたか、それがここで明らかにされています。主イエスは、そのユダにパン切れを浸して与えました(26節)。これは主人が客人をもてなす時に行った行為でありました。ここでは、主イエスがユダを大切にもてなしているわけなのです。しかし、そのことを通して、ユダの正体が暴かれてしまった、つまり、主イエスの愛は、その人の本性を明らかにする力を持っているわけなのです。主イエスの愛にとどまるのか、そこから離れ去るのか、結局はこの2択なのです。そして、ユダの選択は後者でありました。

ですから、ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入ったのです((27節))。戦慄が走るような御言葉ではないでしょうか。これは最後の晩餐と呼ばれる主イエスの食卓で起こったことだからです。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」、文字通り、これは、主の食卓のパンを受け取ったユダにサタンが入った、と言うことです。このパンは、やがて聖餐式で主イエスとの結合を約束する大切な糧です。パンが、私たちの体内に入って、肉の命を養うように、主イエスが私たちの中に入って、永遠の命を養ってくださる、この主イエスとの結合を象徴するようになった命の糧です。それが、ユダにとっては、サタンとの結合を決定づける糧となったのです。

それで、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。(30節)」、と続きます。

すなわち、今、ユダは、主イエスの弟子の集まりから脱退したのです。ここで「夜であった」、と聖書は言います。おそらく外は過越の満月が煌々と輝いていたのだと思います。しかし、ここには、そのような光がわずかでも入り込む余地などございません。「夜であった」、それは、このヨハネ福音書では、光と対照的に語られる暗闇を意味するものであって、そこには滅びの世界が広がっているのです。ユダは今、光から闇へと、命から死へとその舵を切っているのです。

そして、このユダと対照的に描かれているのが、イエスの愛しておられた弟子です。この匿名の弟子が一体誰であるのか、それは昔から今まで議論が続き結論は出ていません。しかし、大切なのは、イエスが愛しておられた弟子が誰であるかを詮索することではなくて、御言葉に示されている主イエスが愛しておられた弟子の、その姿に注目することです。このイエスの愛しておられた弟子は、この福音書で初めてここで登場するなり、イエスのすぐ隣にいたことが記されています(23節)。さらに、この部分直訳しますと、「イエスの胸の中に、彼の弟子たちのうちの一人が横たわっていた。イエスは彼を愛していた。」、となります。イエスの隣というよりも、イエスの胸の中にこの弟子は横たわっていた、とこのように聖書はいうのです。そして、実にこの距離感は、このヨハネ福音書のプロローグで示されている天の父とその独り子である主イエスとの関係を思い出させるのです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(1:18)」、ここで、「父のふところに」という表現があります。これが、本日の御言葉では、「イエスの胸の中に」、と訳せる部分と同じ言葉が使われているのです。天の御父と主イエスとの永遠の一体性、もちろん、それには遥かに及びませんが、ここで、イエスの愛しておられた弟子は、まるで、主イエスに結合されているかのように、この主の晩餐でパンと盃に与っていたのです。

この席順はどのように決められたのかは、わかりません。しかし、それはどうでもいい話です。主イエスのふところで主の晩餐に与っていた弟子がいた、この事実だけで十分であります。

2世紀から3世紀の間に活躍して、古代キリスト教の最大の神学者、と呼ばれているオリゲネスという教父は、この御言葉に触れて次のように言い残しています。「ヨハネ福音書は、福音書のうちでも無双のものであって、これは自らイエスの御胸に寄りかかったことのない人には意味が理解できない。」、これは、私たちが、ヨハネ福音書を読み進めていく上で、あるいは聖書全体を通読する上で、非常に大切な信仰的理解ではないでしょうか。キリスト教信仰は、単なる思想ではなくて、実際、私たちが生かされている日々の中で立ち上がる力です。そして、それは、実際この私が、主イエスに結合されている、私が今主の御胸に寄りかかっている、その信仰的な理解があって初めて現実とされる力なのです。

ところが、実際、私たちは、自分の罪深さから、本当に私は主イエスに結び付けられているのだろうか、と疑う者であります。闇の中を歩んでいるのではないか、とさえ思う日々もしばしばございます。

しかし、私たちが洗礼を受けて、主イエスに結び付けられた以上、その結合は絶対に断ち切れない、これが聖書的な真理です。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ書8:38、39)」この通りです。

当然のことではありますが、イエスの愛しておられた弟子というのは、イエスが愛されていたからそのように呼ばれたのです。この弟子が主イエスに愛される資格があったかとか、なかったとか、聖書はそういうことには、全く興味を示しません。むしろ、あろうことか、彼もまた、この主の晩餐の中で、自分たちの中で誰が一番偉いか、というこの世的な論争に加わっていました。さらに、主イエスが、この弟子だけには、ユダの裏切りを明らかに示したのにも関わらず、それさえも理解できませんでした。つまり、角度を変えて読みますと、ここでこの弟子は、他の弟子たち以上に愚かな姿をさらしているのです。それでも、主イエスは彼を愛されたのです。

私たちも同じではないでしょうか。私たちも主イエスに愛される要素もなければ、その資格も何もありません。しかし、私の状態がどうであるか、それは問題ではないのです。それほどまでに主イエスの愛は完全だからです。ただ、主イエスが一方的な愛、それも十字架の愛でこの私を愛してくださった、だから私は今ここにいるのです。私が主イエスを愛したのではなく、まず主イエスがこの私を愛して下さった。そういう理解では、この私こそが主が愛された弟子なのであります。ここに、私たちの慰めと救いの確信がございます。そして、実にここから、福音宣教への積極的な働きが生まれます。

20世紀最大の神学者とも言われています、スイスの神学者カール・バルトは、ある人に、生涯聖書を研究してあなたは何を学びましたかと聞かれた時、こう答えたそうです・・・、「主、われを愛す」。

これ以上の回答は見つからないのではありませんか。