2025年01月12日「教会組織の原則」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

12節 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13節 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14節 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15節 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16節 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17節 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
18節 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
19節 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
20節 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ヨハネによる福音書 13章12節~20節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「教会組織の原則」ヨハネ福音書13:12〜20

先週までの御言葉で、主イエスは弟子たちの目前で、奴隷の姿になり、奴隷のお働きをされました。そして、そのお姿こそが、十字架の贖いを示すものであり、それゆえに、弟子たちがその深い真理を悟るためには、主イエスが十字架で血を流され、復活された後に、聖霊に満たされるときまで待たねばなりませんでした。本日の御言葉は、その深い真理に辿り着く前に、この主イエスの洗足が弟子たちの間で、どのようにまず理解されなければならないのか、この洗足の示す規範的な意味が示されることによって教会組織の原則が明確にされます。

 一つ目は、主イエスが、「先生」であり「主」である、ということです(13節)。教会の先生はイエスキリストただお一人であり、教会の主はイエスキリストただお一人である、このことが、教会組織の大原則であるのです。牧師のことを「御言葉の教師」、という言い方をいたしますが、それは、彼自身の権威ではなくて、あくまでも、主イエスの代理人として、その職務に当たっている、そういう意味です。主イエス以外に教会の頭があってはならないのです。

 二つ目は、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」、この主イエスの勧告です。繰り返し申しあげてまいりましたように、この足というのは、この時代、体の中で一番汚れた場所でありました。つまり、これは、私たち人間の最も汚らわしい罪の象徴とも言えます。その罪を互いに洗い合う、わかりやすく言い換えれば、罪を許しあう、ここで主イエスが言われていることは、このことです。

 しかし、実にそれが難しいのではないでしょうか。主イエスは、無条件に私たちの罪を赦してくださいました。そればかりか、十字架で死なれてまで、私たちの罪を帳消しにしてくださいました。しかし、私たちは、主イエスが、私たちの罪を赦してくださったように、互いに罪を許し合うことなどできるのでしょうか。はっきり申し上げてそれは無理です。主イエスの洗足に比べれば、私たちのそれは洗足ごっこの類です。しかし、そんなこと主イエスは百も承知です。愚かな弟子たちの姿を他の誰よりも主イエスはご存知だったからです。この最後の晩餐の席上でも誰が一番偉いのか、と論争していたのがこの弟子たちでした(ルカ22:24参照)。むしろ、互いに足を洗い合う姿とは、正反対の彼らに対して、主イエスはこのように言われているのです。どうしてでしょうか。実は、これが主イエスの掟の法則なのです。これは、是非覚えておいていただきたいのですが、聖書の中で、主イエスが弟子たちに掟を与える場面が多々ございます。その全てに、この主イエスの掟の法則は適用されています。

 主イエスは敵を愛せ、と言われました(マタイ5:44)。復讐してはならない(マタイ5:39)、腹を立ててはならない(マタイ5:22)、とも言われました。これらは、人間である以上、完全に守ることなどできないものばかりなのです。しかし、その全てを主イエスご自身が実現してくださった。主イエスの掟というのは、主イエスがすでに実現してくださった、という非常に大切な前提があるのです。ですから、たとえ私たちが、そのわずかでさえ守ることができなくても、十字架の主イエスの贖いを信じることで、まるでそれをすべて実行した者のようにみていただけるのです。お咎めなしなのです。これが、主イエスの掟の法則なのです。ですから、私たちは、まず一歩でも踏み出せばいいのです。

この時代のユダヤの宗教的指導者であった律法学者や、ファリサイ派の人々は、背負い切れない掟の数々を人々に要求しながら、自分たちではそれを動かすために指一本も貸さないような立場でしたが(マタイ23:4)、主イエスは、その正反対でありました。掟を全て担い、そればかりか、私たちの全ての罪まで担い、十字架で死なれたのです。どれだけの重荷を主イエスは、担ってくださったのでしょうか。胸が詰まる思いであります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28〜30)」、ここに、十字架の主イエスの掟の法則が鮮やかに謳われています。

 三つ目は、教会組織は主イエスの十字架の上に立つ、ということです。

 主イエスは、「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。(19節)」、と言われました。ここで「事の起こる前に」、と言われている、「事」、というのは、言うまでもなく主イエスの十字架です。ですから、「私が十字架で死ぬ前に、あらかじめ、あなたがたに言っておく」、これはそういう意味です。その上で、ここで非常に大切な表現が使われています。それが「わたしはある」、これであります。これは、このヨハネ福音書の前編でも繰り返し使われていましたギリシャ語の「ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミー)」を訳した言葉です。そして、この「ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミー)」は、主イエスこそが神の御子であることを証言する機能を持つ言葉でありました。「わたしはある」、このἐγώ εἰμι(エゴー・エイミー)以上に強力な言葉は聖書にはございません。しかし、「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」、と主イエスは言われるのです。つまり、十字架で私が殺された時、「わたしはある」、すなわち、主イエスこそが神の御子であることが明らかになる、と主イエスはあらかじめ弟子たちに言われているのです。もちろん、これを聞いていた弟子たちはちんぷんかんぷんであったはずです。十字架どころか、その目前で全員逃げ出してしまうからです。しかし、主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨が実現した後、この主イエスの十字架が教会組織の礎となって、教会は成長していったのです。

 最後に四つ目、それはこの世に対する教会組織の原則です。

「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。(20節)」、ここで、「わたしの遣わす者」、と言われているのは、弟子たち、今で言いますと全てのキリスト者です。それを受け入れる者は、実は主イエスご自身を受け入れているのである、ということなのです。それだけでは終わりません。「わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」、つまり主イエスを受け入れた者は、主イエスを遣わされた天の御父をも受け入れているのだ、という約束が続くのです。私たちは主イエスの救いを常にこの世に宣言しています。大切なのは、ここでは、それを受け入れた者の状況は一切問われていないと言うことです。どんなに罪深くても、貧しくても、十字架の福音を受け入れば問題ないということです。そして、その場合、自動的に天の御父との関係も与えられるのです。私たちがいかに偉大な権威のもとでイエスキリストの福音を宣教しているか、改めて思い巡らしたいのです。私たちの教会組織は、この世に対しては、全世界の創り主であり、支配者である、全能の神の偉大な権威の上にたて上げられ、その立場で、この世に対して悔い改めの宣教に仕えているのです。栄光が世々限りなくキリストにありますように(ヘブライ13:21)。