2025年01月05日「主イエスに洗われる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2節 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3節 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4節 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5節 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6節 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7節 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8節 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9節 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10節 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11節 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである
ヨハネによる福音書 13章1節~11節

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説教の要約

2025.1.5「主イエスに洗われる」ヨハ13:1〜11

主イエスが自分の足を洗ってくださる姿を見てペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか(6節)」、と言いました。ここでペトロが違和感を感じた気持ちはよくわかるのではないでしょうか。どうして恩師である主イエスが、弟子である私の足を洗おうとされているのか、それがさっぱりわからずに戸惑ったのでありましょう。ですからそのペトロに対して主イエスは言われます。

「イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。(7節)」、ここで主イエスが「後で、分かるようになる」と言われた時期は、ご自身の十字架と復活が実現し、聖霊降臨が起こったその後です。(「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(16:13)」)

 それでも納得のいかないぺトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください(8節)」、と反対を続けます。しかし、それに対して、主イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」、と非常に厳しいことを言われます。ペトロが恩師である主イエスの洗足を拒んだのは、人間的、この世的な論理からでした。その時彼は、「あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」、と言われてしまいました。つまり、主イエスとの関係は、この世的な論理で説明することはできない、ということです。それはこの世の論理ではなく、神の論理なのです。神の栄光の御子が僕となり、最後には十字架で死なれた、これは神の論理であって、人間の論理では理解することも説明することもできないのです。この神の御子である十字架の主イエスの洗いを拒むなら、「あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」、とこのように主イエスは明言されたのです。

 さて、「あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」、と言われてしまったペトロは焦ります。

 「そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。(9節)」、お調子者のペトロらしい、といいますか、ペトロは、一瞬で態度を変えます。足の洗いだけでなく、手も頭も、と主イエスに要求するわけです。それに対して、主イエスは答えられます。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。(10節)」、これは、主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨のあと礼典として定着する洗礼式の本質です。信徒は、一度洗礼を受けた以上、それで全身清くされていて、二度も三度も洗礼を受ける必要など全くないということです。主イエスの十字架の贖いの一回性、と完全性がここで約束されています。その上で、「足だけ洗えばよい」、とここで主イエスが言われているのは、洗礼を受けた後も信仰者は、日々罪を犯すことを前提としているのです。悔い改めて立ち帰れば救いから漏れることはない、そういう意味です。最初期の教会の神父は、洗礼の後に犯した罪を、日々信仰者の足にへばり付く泥のように考えていたようなのです。悔い改めて、立ち帰れば、何ら問題はない、キリスト教会はその最初から、この福音に固く立ったのであります。信仰者は誰でも、罪を犯します。時には深刻な罪さえ犯します。しかし、私たちが主イエスの洗いを受けたのであれば、それを無効にする罪は存在しないのです。

さて、皆が清いわけではない、と主イエスが最後に言われたその意味が明確にされます。「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである(11節)」これは、ユダについて言われていることは、明確です。ユダは、主イエスの洗礼を受けたのにもかかわらず、そこから滅びへと転落した信徒が実際存在することに警鐘を鳴らす人物です。ユダが、どうして主イエスを裏切ったのか、それは明確にはわかりません。多くの理解がなされていますが、一般的には、イエスが期待通りのメシアではなかったから、という結論に辿り着くように思えます。ではどうして、ユダがここで清いものたちから除外されているのでしょうか。私が東京教会の契約の子どもとして育てられていた幼い日の教会学校で、牧師夫人が日曜学校のお話をよくしてくださいました。その中で、忘れられないフレーズが一つだけあるのです。こうおっしゃっていました。「ユダは後悔したからダメだったのね。」幼い日ですから、後悔と悔い改めの違いなど全くわかりません。でも記憶に残っている理由は、いつも優しい牧師夫人がその時は今まで見たことがないような険しい顔をされていたからだと思います。悔い改めて立ち帰ればいいのです。実際、主イエスの洗足を受けたすべての弟子がことごとく主イエス様を裏切って逃げ出してしまいました。しかし、彼らは悔い改めて立ち帰ったが、ユダは後悔して自らの命をたった、この違いなのです。悔い改めには希望が湧き出でます。しかし、後悔は絶望への道を示すのです。

 そして、このユダといつも対局に語られるのがペトロではないでしょうか。今日は、本日の御言葉のペトロの姿から、罪許される悔い改めとは、いかなるものか、そして、洗礼を受けるとはどういうことか、このことを最後に確認したいと思います。

 まずは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったペトロの姿です。ペトロは、主イエスに洗っていただくのではなくて、自分が主イエスの足を洗って差し上げたいと、思っていたはずです。それは、この後のペトロの言動にも強烈に現れています。「ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。(13:37、38 )」、ペトロは、ここで「あなたのためなら命を捨てます」、と豪語します。これは、少し前に「わたしの足など、決して洗わないでください」といったペトロの姿と何ら変わりありません。主イエスが死ぬくらいなら、この私ペトロが死のうではないか、という立場です。ですから、ペトロは、この直後、鶏が鳴くまでに、三度主イエスのことを知らないと言ってしまうわけです。

 これが人間の弱さではないでしょうか。しかし、弱くても、裏切り者でも、それは許されるのです。私たちはもともと多かれ少なかれそういう人間です。そこで希望を無くしてしまうのが死に至る罪なのです。要するに大切なのは、自らのうちに一筋でも功績を求める立場であるのか、そうでないかなのです。私たちのうちに功績もなければ救いに結びつくための何の要素もない、ここに真の悔い改めと、キリスト教信仰がございます。私たちの救いの全てはイエスキリストの十字架にかかっているのです。

 もう一つは、洗足によって示された洗礼の真実です。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」、このように主イエスははっきり言われます。つまりここで洗礼を象徴する洗足の意味をこの時ペトロは、全くわからなかった、ということです。ペトロが洗礼の意味を理解していようがしていまいが、それとは無関係に洗礼は執行されたのです。そして、その洗礼は生涯無効にはならなかったのです。これが非常に重要です。

 罪人は、何もわからなかった時でさえ、十字架の主イエスキリストの罪の洗い清めは有効であり、わたしのしていること、という主イエスの罪の贖いによって、許されるのです。

 知識が先ではなくて、キリストへの信頼が先である、これがキリストの洗礼の本質です。