2024年12月29日「栄光のプロローグ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1節 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2節 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3節 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4節 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5節 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6節 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7節 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8節 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9節 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10節 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11節 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである
ヨハネによる福音書 13章1節~11節

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説教の要点

「栄光のプロローグ」ヨハ13:1〜11

本日の御言葉からヨハネ福音書の後編へと入っていきます。ここでは、通常「洗足」と呼ばれる主イエスが弟子たちの足を洗う行為が描かれることによって、これから始まる主イエスの告別説教のプロローグ部分として機能しています。1〜11節までの段落でそれが記録されていますが、ここには非常に重要な真理が散りばめられていますので、今週と来週の2回に分けて、今週は5節までを中心に、そして次週は残りの6節以下を中心に教えられたい、と願っています。

 「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。(3、4節)」、本日は、「栄光のプロローグ」という説教題が与えられました。それは、このヨハネ福音書の後編が「栄光の書」と呼ばれていますので、それに準えた意味もございます。しかし、文脈を超えて、この福音書で「栄光」と呼ばれてきた主イエスの十字架と復活が実現する、そのプロローグがここにあるからです。そして、それが、「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていること」、この御言葉であります。このヨハネ福音書は、真っ先に、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)」と謳って真理の御言葉の開示を始めます。そして今、後編部分で真っ先に「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしている」、これは、「初めに言があった、言は神と共にあった」、と謳われた神の御子が、十字架と復活によって地上から、また「神のもとに帰ろうとしている」、その姿を明確にするものであります。これが栄光のプロローグなのです。

 ところが、その栄光のプロローグが語られた直後の栄光の神の御子である主イエスの姿が驚きなのです。この「食事の席」というのは、主の晩餐です。やがてこれが聖餐式として制定され、今に至るまで受け継がれてきた大切な主の食卓です。ですから当然この晩餐の主人は主イエス様です。ところが、その主の晩餐の主人が、その食事の席から立ち上がって上着を脱がれたのです。当時の衣服は、上着を脱ぐと上半身は裸で腰に巻いた長い下着だけになりました。これは、言うまでもなく、当時の奴隷の身なりなのです。すなわち、天から降られた神の御子が、天に帰るその最後の食卓で、奴隷になられた、ということです。そして、この主イエスの奴隷の姿は、そのまま十字架を指し示すものでもあるのです。主イエスは十字架につけられるとき、その衣服を剥ぎ取られ、裸で十字架の上に死なれました。まさに、この主の晩餐の途中で、主イエスは、ご自身の十字架の贖いの死を演出しているのです。

 そればかりではありません。「それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。(5節)」、とここで主イエスは、奴隷の姿だけでなく、奴隷の働きまでなさっています。今までも何度か確認してまいりましたが、この時代は、道は舗装されておらず、また履き物も粗末なものでありましたので、人間の体の中で最も汚れる部分は足でした。その最も汚れた部分を主イエスは洗ってくださった、ということです。「父がすべてを御自分の手にゆだねられた(3節)、ということが記されていました。その天と地の全権を御父から委ねられた方が、最後になさったこと、それが弟子たちの足を洗う、という奴隷の働きであったのです。

この主イエスの行為が示す具体的な意味は、次週以降の御言葉で明かにされていきますので、その時に詳しく確認したしますが、まず私たちは、永遠の神の御子がその栄光のプロローグで真っ先になされたこの御業を覚えておきたいのです。

 私は世の中に出て40年ほど経ちますが、昔と今を比べて特に感じるのは、職業環境の変化です。

 労働者にとって、仕事の場所が働きやすいように改善され、整備されてきました。そのようなこともありまして、最近はあまり耳にしなくなりましたが、労働者の3Kという言葉が、私が若い頃には普通に使われていました。その職場によって多少の違いはあるようですが、私が勤めていた服飾関係の職場では、それは、「汚い」「キツい」「カッコ悪い」、この三つのように記憶しています。一言で申し上げれば、人がやりたくない仕事、厄介な仕事、そのくらいの意味でしょうか。

 今、主イエスがなされている洗足の御業は、まさにそのままこの3Kではないでしょうか。「汚い」「キツい」「カッコ悪い」、この働きを神の御子が、しかもその栄光のプロローグで始められた。その時、キリスト者にとってこの世が言う3Kは、極めて積極的な意味を持つものに変えられているのです。

白洋舎というクリーニング店をご存知の方は多いと思います。老舗のクリーニングの会社であり、年間の売り上げは約400億という業界の大手でもあります。この白洋舎の創業者は、五十嵐健治というキリスト者で、1906年、明治時代の終わりにクリーニング事業を立ち上げました。キリスト者作家の三浦綾子さんが「夕あり朝あり」という作品で、この五十嵐健治の生涯を詳しく描いています。

 彼がクリーニング事業を始めた明治の終わりの頃は、洗濯屋、と言われて人々からは、疎ましく思われていました。「洗濯屋近所の垢で飯を食い」、とか言われて軽蔑されていたのです。

五十嵐が事業を始めた動機は、主の日の礼拝を守ることができるように、そして経営者になることで伝道を積極的にすることができるように、という信仰の決断でした。それでも一生の仕事として洗濯業を選ぶのは、まことに恥ずかしかった、と晩年五十嵐は振り返っています。

しかし、祈りの中で与えられた回答が次のようなものでした。「イエスキリストは、神の独り子であられるのに、人の垢どころではなく、人間の汚れに満ちた罪を洗い清めてくださっていられる。しかも十字架にかけられて、その真っ赤な血潮で、罪を洗い清めてくださった。とすれば、この罪人の五十嵐健治が、人々の垢を落とす仕事をさせていただくのは、なんとも栄光の至りというものではないか。」、図らずもこの祈りが、五十嵐健治の栄光のプロローグとされていたわけです。

 今日最後に問いたいのは、私たちキリスト者の3Kとはなんであるか、ということです。答えはそれぞれ違いましょう。しかし、いずれにしてもそれは、この私が主イエスに罪赦された、私の最も汚れたところを主イエスが洗ってくださった、そこから湧き出てくる感謝の働きではないでしょうか。そこでは3Kの意味でさえ、ポジティブなものに逆転しています。どんなに卑しい働きに見えても、それは「感謝」「希望」そして「キリスト」であります。

 一年の計は元旦にあり、と言われます。もちろん、私たちキリスト者にとって大切なのは、元日ではなくて、週ごとの主の日です。めでたいのは新年ではなくて、復活の主に見える主の日だからです。しかし、新しい年も、主の憐れみによって与えられるものである以上、「主にあって、一年の計は元旦にあり」、と新しい年を迎えることは大切でありましょう。

新しい年を迎えるにあたって、キリストにある私たちの栄光のプロローグを思い巡らしていきたいと願います。