2024年11月17日「御言葉の権威」

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44節 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
45節 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
46節 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
47節 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
48節 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
49節 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
50節 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
ヨハネによる福音書 12章44節~50節

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説教の要点

「御言葉の権威」ヨハネ福音書12:44〜50

本日の御言葉は、このヨハネ福音書の前編の最終回です。それゆえに、ここは、地上における主イエスの福音宣教の総集編とも言える箇所でありまして、ここまでこの前編で示されてきた大切な真理が改めて確認されている、そういう御言葉と言えましょう。

おさらいも兼ねてその大切な真理を御言葉の節を追いながら確認いたしましょう。

①「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。(44、45節)」、これは今までこのヨハネ福音書で何度も繰り返されてきた天の父と主イエスとの一体性の上で成り立つ真理で、今まで繰り返しこの福音書で証言されてきました(3:34、4:34、5:24、5:36〜38、6:29、6:57、7:29、7:33、8:29、8:42、11:42参照)。そして、実にイエスを見る者は天の父を見る、これこそが、このヨハネ福音書の主題でありまして、この福音書のプロローグで真っ先に謳われていた真理です。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(1:1)」、この通り、天の父と御子主イエスとは一体どころか同一であって、イエスを見る者は天の父を見る、この法則は、この福音書で真っ先に謳われたこの真理によって異論の余地がないのです。

②「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。(46節)」、ここでは、主イエスがこの世に来られたその目的が、主イエスを信じる信仰者の救いと命であることに他ならない、とまで表明されています(1:9、8:12、9:5、11:9、12:35参照)。

その上で、私たち罪人に要求されているのは、「わたしを信じる者」、すなわちイエスキリストへの信仰、これだけなのです。私たちはキリスト者としてこの世に遣わされていながら、多くの罪を積み重ねて生きています。実に、私たちこそは暗闇です。しかし、それでもなお、主イエスに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つのです(8:12参照)。そして、そのために主イエスはこの世に来られたのです。そうである以上、私たちがいかに罪深い性質を持っていようとそれは問題ではありません。問題なのは、その罪人である私たちが、主イエスを信じるか信じないか、このことだけであります。

③「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。(47節)」、これは、このヨハネ福音書の中心に響く主イエスの福音そのものです。すなわち、これは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(3:16、17)」、この御言葉の約束の再確認で、ここに福音宣教の根拠がございます。私たちは弱い者たちです。しかし、だからこそ、神の愛に生きているその姿が際立つのではないでしょうか。弱いというのは信仰のハンディにはなりません。むしろ弱さは信仰のアドバンテージとさえなり得ます。弱さの中でこそ、キリストの恵が際立つからです。弱さを隠すのではなくて、むしろその弱さを神の愛のゆえに誇ることが信仰の力であり、キリスト者の生き方であります。

④「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。(48節)」、ここでは、キリストの言葉に決定的な権威が与えられているわけです(5:30、8:26参照)。これも、このヨハネ福音書で極めて重要な真理として宣言されています。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(5:24)」、この通り、ここでも「わたしの言葉を聞いて」、とキリストの言葉への聴従が私たちの救いの根拠になっています。しかも、ここでは「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」、とその救いがすでに確定しているどころか、実現していることまで約束されています。この御言葉は、聖書における罪人の救いを最も鮮やかに、最も現実的に示したものであります。このヨハネ福音書ほど私たちに与えられている永遠の命を生き生きと証言した御言葉はありません。そして、ここでは、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は」、とされていまして、キリストの言葉が、「わたしをお遣わしになった方」、すなわち天の父なる神へと導く機能を持っていることが示されています。そして、実はそれが最後に明確にされてヨハネ福音書の前編の幕は降ろされるのです。

すなわち、それが、⑤「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。(49、50節)」、ここで言われていますことを最も簡単に要約しますと、「イエスは、天の父からこの世に遣わされた神の言葉である」、となりましょう。(3:34、6:38、7:16参照)。

本日は、「御言葉の権威」という説教題が与えられました。それはそのまま、この主イエスの言葉の権威に他なりません。

先週も確認しましたように、地上を歩まれた主イエスは、この世の人々から見て決して立派な出立ちをしていたわけではないのです。むしろ逆でありました。神の御子は、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない(イザヤ書53:2)」、この惨めな姿で地上を歩まれました。しかし、そのナザレのイエスこそが神の言葉であった。これこそが、このヨハネ福音書で明確にされてきた比類なき真理なのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、これがヨハネ福音書の内容の要約であり、その神学であり、これ以上ない真理なのです。

そして、神の言葉、それは今私たちに聖書という形で与えられています。この聖書の御言葉が主イエスキリストそのものであり、この御言葉が全人類の救いと裁きを分ける唯一の基準であるのです。

ところが、この御言葉を委ねられ、福音宣教に勤しむ私たちの教会は、とても小さく貧しく、この世的に見れば本当に小さな存在です。しかし、むしろそれが聖書的なのではありませんか。私たちもまた、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」、この惨めな姿で福音宣教に遣わされて然るべきなのです。その何とも見栄えの悪い私たちの教会が、そして私たち一人一人が用いられて、神の言葉は宣教されるのです。

 いよいよ来年、新しい会堂の工事が始まり、夏には完成する予定です、しかし、それは、この世的な麗しさを追求しての新会堂建築ではありません。どのようなハンディキャップがある方でも礼拝を守ることができるように、そして、この地で10年先も、20年先も福音宣教に仕えることができるように祈り求めて与えられた回答です。むしろ、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」、この姿は古くても新しくしても変わりません。会堂が新しくなったから罪人が救われるのではなくて、そこで語られるキリストの言葉には権威と力があるから、罪人が悔い改めて救われるのです。