2024年11月10日「不信仰の法則」
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不信仰の法則
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- 新井主一 牧師
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ヨハネによる福音書 12章37節~43節
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聖書の言葉
37節 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。
38節 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
39節 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
40節 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
41節 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。
42節 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。
43節 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
ヨハネによる福音書 12章37節~43節
メッセージ
説教の要点
「不信仰の法則」ヨハネ福音書12:37〜43
あと2回で、このヨハネ福音書の前編が終わりますが、本日の箇所の「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。(37節)」、これが、その前編の総括と言えましょう。 カナの結婚式の奇跡に始まり(2:1〜12)、ラザロの復活に至るまで(11:1〜44)、主イエスは多くのしるしをユダヤの民の面前で行われてきました。しかし、その結果が、「彼らはイエスを信じなかった」、とこのように報告されているわけです。
しかし、このユダヤ人たちの不信仰が今始まったことではないことが旧約聖書のイザヤ書の御言葉が繰り返し引用されて証明され(38〜41)、彼らの不信仰の根本的な理由が明確にされます。
特に、「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。(39、40節)」、これはイザヤ書6:10のイザヤの召命の場面からの引用です。ここでは、イザヤが預言者としてその道を歩み出す瞬間に、主なる神が、「彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた」のです。つまり簡単に言えば、イザヤが語る神の言葉は、最初から拒絶される、ということが前提にされて、イザヤは預言者として民の中に遣わされたのです。
通常、このイザヤ書の御言葉を「頑なの神学」、と呼んでいます。神の言葉を取り継ぐ預言者は、神から召命を与えられ、救いのメッセージを携えて、この世に遣わされるのですが、それを受け取るこの世は頑なであり、御言葉を理解せず、悟らない民の集まりであるわけです。しかし、いつの時代も伝道者は、その頑なな世の中に福音を宣教するために遣わされているのです。実に福音宣教というのは、論理的には全く筋が通らない現実の中で営まれるのです。
しかし、主イエスの言葉を信じない者たちの中も一様ではありませんでした。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。(42節)」、すなわち、イエスを信じなかった者の中に、しかも、身分の高い最高法院の議員の中にさえ、実は、「イエスを信じる者は多かった」、と御言葉は報告しているのです。しかし、この多くいた信じる者たちは、聖書的には、イエスを信じなかった者たちと同類の扱いを受けているのです。実は、信じるものが多い少ない、と言うことは問題ではないのです。問題なのは、その信仰が本物か、偽物か、これなのです。この議員の中にいたイエスを信じる者たちは、その本音ではこの男こそ救い主、メシアに違いないと思っているのです。しかし、「会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」、とそれを信仰告白としては表明しなかったわけです。しかし、それは信じたことにはならない、そればかりか不信仰と同じである、というのが聖書の理解なのです。
この「公に言い表さなかった」、の「言い表す」、と言う字は、ローマ書でパウロが信仰告白を定義する目的で使っています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマ書10:9、10 )」、ここで、「公に言い表し」、と繰り返されている字が、全く同じ言葉です。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」、これが信仰告白であり、心で信じているだけでは、それは信仰とは言えないのです。
つまり、信仰には必ずリスクが伴うのです。リスクがない信仰は信仰ではないのです。
実は、このローマ書の御言葉のこのすぐ後に、本日のヨハネ福音書で引用された同じイザヤの53章のメシア預言が引用されて、信仰の奥義が示されます。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ書10:16、17)」、この「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」、これが本日の御言葉でも真っ先に(38節)、ユダヤ人の不信仰の証拠聖句として引用されたイザヤ書のメシア預言です。
ここでは、先ほども確認しました所謂「頑なの神学」のポジティブな側面が示されている、と申し上げてよろしいでしょう。イザヤは、語っても理解せず、悟らない民のところに遣わされるのです。しかし、それでも尚、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」、この事実は全く動かないのです。つまり、キリストの言葉を語るものがいなければ、誰も救われないと言うことです。ですから、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」、と言われる現実の中で、福音は語り続けられなければならないのです。私たちの伝道で大切なのは、信じさせることではなく、語り続けることなのです。福音を、しかもキリストの言葉、と言える純粋な言葉を語り続けることなのです。信じたか、信じなかったか、それは私たちの責任ではないのです。
その上で、彼らが、そのキリストご本人の言葉を聞いても信じなかったその理由が最後に示されます。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。(43節)」、これが不信仰の法則、と言えましょう。彼らは、イエスを信じたのです。しかし、それを表明しなかった。その本当の理由が、「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」、このことなのです。
結局、信仰と不信仰の違いは非常にシンプルでありまして、最も簡単に言いますと、神か人か、これなのです。確かに、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ方が、この世におきましては称賛されるでしょう。栄誉を与えられるでしょう。地位や身分も保証されるでしょう。
そして、実は、これは、主イエスを信じている私たち信仰者に常に問われている信仰の立場です。私たちは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んでいないか、この不信仰の法則に傾いていないか、これは、日々その信仰の歩みの現実において常に問われているはずであります。そこにキリスト者一人一人の信仰の戦いがあるのです。神か、人か、神の国か、この世か、そこに信仰の戦いがあります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ書11:1)」、その通りです。しかし、それは無風状態の中で行われる呑気なものではありません。信仰とは常に不信仰との戦いなのです。
私たちの改革派教会20周年宣言に次のような信仰告白がございます。
「教会の神学と伝道とは、キリストに連なる信徒各自が、この世にあって神の言葉に従う生活を営むときの具体的な信仰の戦いに基礎をもつ。」、私たち信徒が実は、教会の神学と伝道の最前線で、戦っているのです。しかし、私たちは、キリストの羊であり、飼い主である主に従う羊の群れであります。この主イエスが勝利の君である以上、私たちの信仰の戦いの終わりに見えるものは必ず勝利であります。今が、どんなに苦しくても。