2024年11月03日「光あるうちに」
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光あるうちに
- 日付
- 説教
- 新井主一 牧師
- 聖書
ヨハネによる福音書 12章27節~36節
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聖書の言葉
27節 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
28節 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
29節 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
30節 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
31節 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
32節 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
33節 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
34節 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
35節 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。
36節 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。
ヨハネによる福音書 12章27節~36節
メッセージ
説教の要約「光あるうちに」ヨハネ福音書12:27〜36
前の段落で主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た(12:23)」、と今まで封印されてきたイエスの時の解除を宣言されました。つまり、いよいよ主イエスが、十字架への道を歩み出す決定的瞬間が訪れてその時が流れ出した、ということでありました。このイエスの時が始まった時、主イエスは、「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう(31、32節)」、と非常に大切なことを宣言されました。
まず、「わたしは地上から上げられるとき」、これはもう言うまでもありません。今までこのヨハネ福音書で繰り返し確認してきましたように、この「上げられる」、と言う字は、主イエスの十字架を示すと同時に、主イエスの復活と昇天も示す役割を持った非常に大切な言葉です。すなわち、主イエスの十字架と復活において、「この世が裁かれ、この世の支配者が追放される」、と言う裁きが始まると同時に、「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」、と言う救いの業が始まるわけなのです。
そして、実は、これが主イエスの十字架と復活の後のこの世の状況に他ならないのです。主イエスの十字架と復活から現代に至るまで、そして世の終わりまでこの裁きと救いの時代が続いていくのです。しかし、本当にそうでしょうか。この世の支配者たちは、昔から今に至るまでやりたい放題ではありませんか。彼らは、その権力を振りかざして、弱いものを圧迫し、その生活と命を簡単に奪っています。これが、私たちが今この目で見ている現実です。しかし、それがそのまま裁きになっている、と言うことです(3:18〜19)。私たちの肉の目には、この世の支配者たちが、ますますその力を誇示し、好き勝手にやっているように映りますが、もう彼らの裁きは始まっていて、最終的な恐ろしい報復を逃れることはできないのです。いつの時代にあっても、これが聖書の理解です。そして、同時に「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」、この主イエスの十字架と復活によって、「すべての人」を対象に救いが向けられている、これも聖書の約束なのです。
ここで、「すべての人」と言われていますので、滅びるものは誰もいないなんて理解するのは大間違いです。これは誰も彼も救われることを意味するのではなくて、救われる者に対するその救いの完全性を意味していて、主イエスが、ご自身のもとへ引き寄せて下さった以上、必ず救われる、と言う約束です。逆に追放される多くの者たちも存在しているのです。この裁きと救いの緊張関係を生み出すのが、主イエスが上げられるとき、すなわち主イエスの十字と復活であると言うことなのです。
その上で主イエスは言われます。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。(35節)」、ここで主イエスは、あらゆる時代とあらゆる場所に適用される救いの法則を示されるのです。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」、この光とは、言うまでもなく主イエスご自身で、群衆は、今、他でもないこの世の救い主に見えているのです。この「あなたがたの間にある」、の「間に」、と訳されています前置詞は、ギリシア語では、「エン(ἐν)」と言うとても大切な言葉です。これは、英語で言いますとinやwithに近い意味を持ちまして、〜の中に、あるいは、〜と共に、と言う状態を表す前置詞で、例えばパウロはキリストとの結合にこの前置詞を使って、「エン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ」、と繰り返し表現しています。 その代表的な箇所が福音の頂点と呼ばれるあのローマ書8章の最初の節です。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(ローマ書8:1)」これです。この「キリスト・イエスに結ばれている」、この救いの決定的な状況を指してパウロは、「エン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ」というのです。
つまり、本日の御言葉の「光は、いましばらく、あなたがたの間にある」、具体的にこれは、主イエスがここにおられて、その救い主と結合できる恵の時を示すものと言えます。それを逃してしまったら、二度とチャンスは訪れないかもしれない、その決定的な救いの時なのです。ですから、「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」、と続きます。この救いのチャンスをみすみす逃す時、滅びに至る暗闇に捕らえられて、そこから抜け出すことができなくなる、この警告なのです。
実は、この光と暗闇との関係は、私たち罪人の状況を示すために、このヨハネ福音書のプロローグで真っ先に語られる真理なのです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(1:4、5)」、実に、これが私たち罪人の本来の状態なのです。光は暗闇の中で輝いているのに、暗闇は光を理解しなかった、これなのです。ですから、私たちが救われたと言うのは、この状況から救い出された、と言うことに他ならないのです。本来、光を理解できない私たちに、光である主イエスの方から近寄ってくださり、一方的な恩恵で救いを実現して下さった、だから私たちは、光の子として歩んでいるのです。
パウロは、この私たちの救いの確信をテサロニケの信徒たちに教えています。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。(Ⅰテサロニケ5:4、5)」、この通りです。その上で、パウロは、そのために私たちが実践していかなければならないことを以下で示していきます(6〜9節参照「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(6節)etc.」)。以下、その光の子として歩むための具体的な信仰生活の勧告が列挙されるわけですが、本日最後に、光のうちに歩む私たちが、特に覚えておきたいのは、その後の10節の御言葉なのです。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。(Ⅰテサロニケ5:10)」、ここでは、「わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」、とまで言われています。私たちは、常に信仰の目を開いているとは限りません。そうである以上、もし、主イエスが来られたとき、私たちが微睡んでいたら、救われないかもしれない、と言う不安は解決されない問題として残ります。しかし、ここでは、わたしたちが、目覚めていようが、眠っていようが(この「眠っていても」は肉体の死さえも意味する言葉です)、主と共に生きると言う状況はなんら変わらないことまで約束されているのです。それは、主がわたしたちのために死なれたからであります。この十字架の救いの完全性が、ここでは約束されているのです。
歳を重ねるごとに体の機能が衰えていきます。今や、二人に一人は癌を患い、三人に一人は認知症を患うとさえ言われています。しかし、私たちがそのような状況になって主を忘れてしまう時も、主は私たちを忘れられないのです。そもそも「暗闇は光を理解しなかった」、これが私たちの状態でありました。しかし、光の方が闇にあった私たちを理解して下さったのです。決して、私たちが光を理解したのではなくて、光が暗闇である私たちを照らし、理解して下さった。そればかりか絶対に見捨てることはない。光に歩む私たちから光が消えることはあり得ない。なんと言う恵みでありましょうか。